砂漠の夢
今日も道ばたで名前も知らない隣人が死んでいる。
町の向こう側には高い壁がある。
その先には魔術師の屋敷があり、今日も宴の騒ぎが聞こえてくる。
噂によれば、その場所には飲みきれないほどの水があり、食べきれないほどの食物で溢れかえっているらしい。
壁を隔ててすぐそこにある楽園。
しかし、決して手の届かない場所。
いつしか貧困層の人々は壁の向こうに夢を見ることすらやめた。
壁の向こうには何も存在していない。
ただあるのは蜃気楼。
しかし、この町にただ独り夢を見る青年がいた。
あるとき町を訪れた旅人。ほかの者たちはまったく興味を示さなかったが、この青年だけは旅人の話に耳を傾けた。
旅人が青年に聞かせたのは様々な国や地域の話だった。
この砂漠の町がすべてであった青年には、それが新鮮で心引かれるものだったのだ。
そして、青年は今の生活を抜け出すことを決意する。
決して政治や思想に目覚めたわけではない。
ただ魔術師の生活を夢見るようになっただけ。
そこで青年は魔術師の屋敷に忍び込むことにしたのだった。
貧困と富裕。
その境界を隔てているのは高い壁。
壁にはただ一カ所、巨大な扉があった。
その扉を通じて、何かが屋敷の中に運ばれる光景を青年は幾度か目にしていた。
青年はその荷馬車に紛れ、屋敷の中に入ろうと考えた。
難なく荷馬車に隠れた青年は、そこで荷の一つを開けてみた。
そこにはなんと瑞々しい果物が詰め込まれていた。
青年は無我夢中で果物を頬張った。
いつもなら汁の一滴すら無駄にしなかっただろうに、今はしたたる汁に構うことなく、我武者羅に果物にかじり付いたのだ。
青年は思った。
屋敷の中にはもっと素晴らしい物があるはずだ。
いとも簡単に青年は屋敷の中へ侵入を果たすことができた。
魔術師はあぐらをかき、もはやこの己に手を出す者などいないと思っている。
ゆえに青年の侵入を容易く許してしまったのだ。
屋敷の壁や柱は黄金でできていたが、青年はそれには目もくれず、水の湛えられたプールを見るなり飛び込んだ。
水しぶきが上がり、口や鼻に水が入ってくる。
泳ぐということを知らなかった青年は溺れかけたが、すぐに床に足をつけて立ち上がって事なきを得た。
こんな多くの水を見たのは生まれてはじめてだった。
世界にこんなにも水があるとは思ってもみなかった。
まさに浴びるほど青年は水を飲んだ。
水で腹が膨れると、青年は屋敷の中を散策しはじめた。
広い屋敷は静まり返っていた。
やっと音が聞こえてきた。
歌や楽器が奏でる宴の音に誘われ、青年はそっと部屋を覗くが、そこにはだれもいない。
不思議なことに音だけが聞こえてくる。
不気味に思い青年は足早にその場をあとにした。
青年はこの屋敷にある価値のある物を探した。
それさえ手に入れれば、今の生活から抜け出すことができる。
いったいそれはこの屋敷にどこにあるのか?
探せど探せど見つからない。
やがて青年は寝室に迷い込み、ベッドに飛び込むとうっかり寝込んでしまった。
しばらくして魔術師が寝室にやって来た。
「なんだおまえ!」
驚いた魔術師の声で青年は飛び起きた。
すぐに青年は逃げようとしたが、驚くべきことが起きて足がすくんでしまった。
なんと腕にヒビが入ったかと思うと、そこから肉が裂け、骨を残して輪切りにされてしまったのだ。
「ウワァァァァッ!」
青年は叫んだ。
しかし、腕には次々とヒビは入り、輪切りは止まらず骨が剥き出しにされていく。
青年は発狂しながら魔術師に飛び掛かった。
押し倒した魔術師の首を絞める青年。
顔を蒼白くさせた魔術師は怯えきった表情で、こう漏らした。
「殺さないでくれ……なんでもおまえの好きなものをやろう……」
その言葉で青年は我に返った。
輪切りにされていたはずの腕は何事もなかったように、元通りに戻っていた。
いや、元に戻ったのではなく、はじめからそんなことなかったのだ。
すべては魔術師が見せた悪夢。
青年は望みを告げる。
「この屋敷で1番価値のある物を差し出せ!」
「それならば……」
魔術師が案内したのは寝室の奥にある大金庫だった。
「好きな物を持って行くがいい」
そう魔術師は言ったが、青年はどれにも手を伸ばそうとしなかった。
金銀財宝から珍しい香水や古い書物。
どれも価値のある物だった。
同時に――。
「こんなものに価値なんかあるわけないだろ、ウソつくな!」
青年にとって価値のない物だった。
再び青年は魔術師に飛び掛かった。
しかし、今度はいつの間にか魔術師が隠し持っていた短剣で、返り討ちにされてしまった。
青年は腹を刺され、床に倒れた。
真っ赤な血が流れる。
死は目前まで迫っていた。
青年は強く願った。
――生きたい。
閉じられたまぶたを照らす強い光。
青年は目を開けた。
目の前にはボロをまとった老人。
「なんだ、まだ生きとったのか」
そこは見慣れた風景。
貧しい人々が住む砂漠の町。
無気力な人々が、暑さをしのぎながら腹を空かせている。
ふと横を見ると名前も知らない隣人が死んでいた。
青年は腹をさすった。
そこに傷はない。
ただ腹が空いていた。
青年は町の向こうを眺めた。
そこに高い壁はない。
どこまでもどこまでも砂漠が広がっていた。
あの地平線の向こうになにがあるのだろうか?
行く手を阻む壁はそこにはない。
作品名:砂漠の夢 作家名:秋月あきら(秋月瑛)