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秋月あきら(秋月瑛)
秋月あきら(秋月瑛)
novelistID. 2039
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ナーショの書

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生まれては死んでいく世界。
 それは巡る廻る〈伝説の書〉へと続く物語。
 かの名はナーショの書。

 天は彼女に才能を与えた。
 多くの書を読み、多くを記憶していく。
 瞬く間にナーショは国中の書物を読み尽くし、すべてを記憶した。
 知の象徴として謳われ、地位と名声を手に入れたナーショだったが、彼女は知らなかった。
 知識とは宇宙の広がりに等しいことを――。
 彼女は国から一歩も出たこともなく、陽の下ですらあまり出歩かない。
 世界とは自分のいる場所と書の中だけ。
 盲目にもナーショはそれがすべてだと思いこんでいた。
 この国には彼女を咎める者はいない。
 しかし、そんなときに現れた旅人の男。
 旅人は〈伝説の書〉を求め旅をしているのだという。
 そしてたどり着いたのがナーショの元。
「〈伝説の書〉を知っているか?」
 旅人の問いにナーショは、
「そんなもの空想にすぎないわ!」
 とあざ笑った。
 旅人はひどく落胆したようすで、やがて冷笑を浮かべた。
「すべての書を知る者がここに居ると聞いたが、デマだったようだ」
 早々に旅人は姿を消してしまった。
 はじめナーショは謀れたのだと思った。
 旅人は嘘をついて自分をからかったのだと。
 それほどまでに自分の知識には自信を持っていた。
 しかし、やがて不安が過ぎるようになる。
 もしも本当に〈伝説の書〉なるものがあったら?
 それを知らないということは、自負心を傷つけられる恥である。
 今の自分があるのは、自分が誰よりも優れた知識を有しているからだ。
 やがて四六時中、〈伝説の書〉のことで頭がいっぱいになった。
 国中の書物を再読したが、すべて熟知した古い知識。
 国外からも次々と書物を取り寄せるが、それは無限とも思える途方なものとなった。
 ナーショは少しずつ恐ろしさに気づきはじめていた。
 いくら速読と暗記に秀でていても、知識の海に広く深く、溺れてしまいそうな感覚。
 神経症に陥りながらナーショは書を読みあさった。
 しかし、〈伝説の書〉は見つからない。
 以前はそんなものなどないという結論に達したが、今はその確証が持てなくなっていた。
 国外の書物に手を伸ばすようになってから、知識は膨張していった。
 それは許し難いことに、知らなかった知識があったことを示唆していた。
 ナーショは許せなかった。
 知らないことがあるということを。
 まだ知らぬ知識の中に、もしも〈伝説の書〉があると思うと、怖ろしくてたまらない。
 国交のある国外の書物を入手することが安易だが、それ以外となると希だった。
 未開の地には蛮人しか住んでおらず、文明と呼べるものもないとされている。
 少なくとも書で呼んだ限りの知識ではそうだ。
 けれど、知識が増えるにつれて、やがて疑いの芽が生まれる。
 ナーショは口に出すことはなかったが、神の存在ですら懐疑的になっていた。
 この国でそれを口にすることは異端であり、重い処罰の対象となるが、ナーショは疑わずにはいられなかった。
 やがてナーショは気づきはじめる。
 知識とはいったいなんなのか?
 ナーショは世界にあるものたちを知っている。
 見たことのない土地や、そこに咲く花の名を知っている。
 しかし、それは果たして本当に存在しているものなのだろうか?
 その思いは部屋にこもっていたナーショを、外の世界へ導くものだった。
 ついにナーショは国を旅立った。
 まずは近隣の国々へ。
 そこで知識と自分の目で見て体験をしたことを符合さえ、時に書の誤りに気づいて修正した。
 ナーショは自ら書をしたためた。
 旅の全てを漏らさず記していった。
 他人が記した書には懐疑心を抱いてしまうようになっていたが、自ら記した書には疑う余地などない。
 旅は過酷なものだった。
 はじめのうちは近隣の諸国を廻ったが、やがては未開の地にも足を踏み入れた。
 同行していた兵士や使用人たちも、母国から離れるにつれてその数を減らしていった。
 ナーショは旅によって逞しさを得ていた。
 部屋の中でワインを片手に書を読み漁っていたナーショの影はない。
 知識は別のものへ変わろうとしていた。
 しかし、ナーショはまだそれに気づかない。
 遠い異国の地でナーショはある男に出会った。
 それはあの日、〈伝説の書〉を求めてナーショを尋ねてきた旅人。
 旅人は言った。
「〈伝説の書〉は見つかったか?」
 ナーショはハッとした。
 めくるめく旅路の中で、そんなことなど喪失していた。
 切っ掛けは〈伝説の書〉だった。
 旅の中でナーショは幾星霜とも言える新たな書に出会った。
 しかし、まだ〈伝説の書〉は見つかっていない。
 ナーショは悔しそうに首を横に振った。
 はじめて出会ったときに旅人の冷笑をナーショは今でも覚えている。
 未だ〈伝説の書〉に出会えぬナーショを再び旅人は笑うのだろうか?
 だが、旅人はとても真摯な瞳をしていた。
 そして、興味深そうにナーショの持つ薄汚れた書を見つめた。
 旅人はその書をナーショから借り受けると、感心したように何度も頷きながら書を読みふけった。
 書を読んだ旅人は尋ねる。
「こんなおもしろい書は初めて読んだ。名前はなんと言う?」
 ナーショは戸惑った。
 名前などなかった。
「この書はわたしの旅の記録。名前なんてないわ」
 真実のみを記してきた世界に一つだけの書。
 旅人はさらに尋ねる。
「旅の記録はこれ一冊ではあるまい?」
「もう数え切れないくらい記してきたわ」
「……そうか。やがて君は〈伝説の書〉に辿り着くかもしれない。もしかしたら……いや、やめておこう」
「なにを言おうとしたの?」
「君は君の旅を続けていればいい。すでに君は知識ではなく、それに優る別のモノを得た」
 百聞は一見に如かずことをナーショは知っている。
 陽の温かさ、花の香しさ、雨の冷たさ。
 相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。
 物事をありのままに把握し、真理を見極める旅路。
 ナーショは旅人と別れてからも旅を続けた。
 それは永遠に思われた旅路であったが、ある日突然ナーショは旅をやめてしまった。
 世界にはまだ見ぬものがいくつもある筈だった。
 しかし、ナーショは旅をやめた。
 知識とは宇宙よりも広大であることをナーショは悟っていた。
 幾星霜の転生を繰り返しても、その知識を得ることは難しいだろう。
 帰国してからナーショは国を繁栄へと導いた。
 やがて栄光の煌めきは近隣諸国も照らしはじめた。
 多くの者がナーショを褒め称え、彼女のことを記した書が生まれた。
 何十年、何百年もの月日が経ったのち、もうすでにナーショはこの世にいない。
 けれど彼女のことを記した書は、今も多くの人に読まれ親しまれている。
 新興国の初代女王ナーショの名を知らぬ者はこの国にはいないだろう。
 そう、ナーショは伝説になったのだ。