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短編集42(過去作品)

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信夫の中の信夫



                 信夫の中の信夫



 この土地を離れて三年が経っていた。いつも朝出かけた喫茶店、いつもニコヤカに迎えてくれたマスターが、その日もニコヤカに迎えてくれた。
「やあ、久しぶりだね」
「ご無沙汰しています」
 玄関を開けてすぐに目が合い、その瞬間に挨拶を交わせるのだから、この三年という期間は、信夫に何ら表面的な変化を与えるものではなかったようだ。
 名前を村松信夫というが、三年前最後に訪れた時は、身支度がすっかり整って、カバン一つで出かけてきたところだった。今でもあの時のことを思い出す。
「いよいよだね。寂しくなるよ」
 マスターの言葉に堪えきれないものを胸の奥に感じた信夫は、必死にむせる気持ちを抑えていた。
「この街の思い出は多いから、辛いですね」
 そこまでいうのがやっとだった。マスターが入れてくれる最後のコーヒーを味わいながら飲んでいたが、しばしの別れのつもりだった。いつまでなのか分からないが、
「数年のつもりで、君には宮崎に転勤してもらいたい」
 といきなりの通達だった。
 福岡支店から宮崎だとそれほど遠くは感じないだろうは、簡単に戻ってこれる距離でもない。九州全域に拠点のある会社なので、それぞれの県庁所在地に一つの支店である。福岡からなら一番不便なところは、やはり宮崎だろう。
 約束どおり、三年という月日が経過したところで、福岡に戻ってくることになったが、戻ってくると、中心部は結構変わっていた。
――たった三年で変わるんだから、結構福岡って都会なんだな――
 という気にさせられた。
 元々中学の頃までは大阪に住んでいたので、大都会には慣れていた。福岡という土地は都会なのだが、さすがに大阪に比べると同じ都会でも中途半端に思えてならなかった。しかも福岡弁が田舎の方言に聞こえ、祭りまでもが地元意識の強い、田舎に思えてならなかった。
 その思いは今でも変わらない。どんなに福岡が都会になろうとも、大阪で育ったイメージが残っている以上、福岡は中途半端な都会でしかないのだ。福岡で生まれ、ずっと福岡にいる連中には理解できない発想であろう。
 大学時代、アパートを借りて福岡で生活していた。あまり立派ではないが、一応コーポに住んでいて、勉強も真面目にしたと思う。その成果があってか、成績はそれほど悪い方ではなく、就職も何とかなるだろうと思っていた。
 九州を拠点とした中では大手と言われている会社に就職できたのは、計算どおりというところであろうか。全国一円に広がっている会社も数社受けてみたが、結局、地元企業にしたのは正解だったのかも知れない。
 入社してから一年くらいは、がむしゃらに仕事をしていた。気がつけば一年が経っていて、後から後輩が入ってきた。気持ち的にも少し余裕ができた。仕事にも慣れ、まわりを見る余裕ができたのが、気持ちの余裕に繋がったのだ。
 就職してから大学時代とはまったく違うところに引っ越した。同じ福岡ではあるが、学生時代には用のなかったところで、初めて訪れた土地だった。
――学生時代と違うところに住むのは正解だろうな――
 と考えたのは、どうしても学生時代からの気持ちの切り替えが難しいだろうと思ったからだ。甘えのようなものが生まれても仕方のない環境に身を置くことを、自らで嫌ったのである。
 少し通勤には時間が掛かった。途中の駅まで徒歩で十五分、これはちょうどいい距離である。会社から離れているということが、都合いいとは、もちろん最初から分かっていたわけではない。
 駅前にある喫茶店は引っ越してきた時から気になっていた。木造でアンティークな感じの佇まいは、学生時代から好きだった雰囲気である。気持ちに余裕ができたら常連になりたいと思っていたところである。学生時代にも数軒常連になっていた店があったが、どれも皆似たような雰囲気の店である。
 常連にする店の特徴は、見た目の佇まいでピンと来るか、それとも店でマスターと話していて常連になる気持ちが固まるかだが、学生時代は、後者の方が多かったように思う。
 駅前の喫茶店「ボヤージ」は、学生時代と違い、見た目の佇まいにピンと来た店であった。最初から入ろうと思っていたが、入らなかったのは、やはり気持ちに余裕を持ってからでないとゆっくりできないことが分かっていたからだ。余計なことを考えていては、せっかく常連になっても楽しくないのは当たり前で、逆に気持ちに余裕を持てれば、間違いなく常連になれるだろうという気持ちがあった。
 半年近く掛かった。がむしゃらに仕事をしていたのは一年だったが、後半の半年は、気持ちに余裕を持っていた。仕事が楽しくなり始めた頃だったのだ。
 博多から二十分ほど下ったところに住むようになった。近くには大宰府天満宮や都府楼跡などのような史跡があることから散歩コースにもなっていて、休みの日など、歩いている人を多く見かける。福岡市内のベッドタウンとしても充実しているこの地域だが、喫茶店が少ないのが少し寂しかった。
――普通の喫茶店は流行らないんだな――
 と思えるが、それでもちょうど信夫の利用している駅前に気に入った喫茶店があることは嬉しかった。
 木造の喫茶店の店内は思ったよりも暖かかった。暖房効果なのか、窓際のガラスにほんのりと水滴がついているのに気付いていた。
 表がどんなに寒くとも中に入れば暖かいと分かっているのが嬉しい。仕事が終わってすぐに家に帰ることもあれば、ここで夕食を済ませていくこともある。部屋に帰っても一人の部屋は寂しいもので、特に冬は喫茶店に寄る回数が増えた。
 冬の時期は会社を出る時点から表は真っ暗なので、駅を降りてから、喫茶店に入るのに違和感などない。常連になるまでにそれほど時間も掛からなかった。マスターも気さくな人で、いつもグラスを拭きながら話し相手になってくれている。話の内容は仕事のことから、趣味までいろいろだ。その時の精神状態によって変わってくる。
 マスターの趣味は釣りらしい。釣りの話を始めると時間を忘れてでも話しているマスターは、話し上手なところがあり、聞いている方も時間の長さをあまり感じない。
 常連が集まる喫茶店だが、皆ここだけの知り合いが多いようだ。一人でやってきて、知り合いの常連がいれば話をする。趣味も仕事もバラバラの人が集まってワイワイ話のできる、喫茶「ボヤージ」はそんな店である。
 いつものように仕事が終わって、すぐに電車で帰ってきて、いつもの明かりを目指して喫茶「ボヤージ」の扉を開けた。カランカランと鈴の音がして、乾いた空気を刺激している。
 店内を見渡せば、まだ常連はおらず、カウンターに一人女性が座っているだけだった。
 テーブルに誰もおらず、カウンターに女性が一人だけいるというのも珍しかった。ちょうど、夕方からの客が帰ってしまい少し空いた時間だったようで、カウンターに座っている女性は信夫が扉を開けても振り向こうともしなかった。
 信夫のいつもの指定席はカウンターの一番奥である。その女性が座っているのはちょうど真ん中で、腰を下ろしてカバンを隣の席に置いた時にさりげなく彼女の顔を垣間見た。
「あっ」
作品名:短編集42(過去作品) 作家名:森本晃次