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とーとろじい
とーとろじい
novelistID. 63052
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磨き残しのある想像の光景たち

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1.2 映画の手を借りて笑う妻



 夜、仕事を終え、家へ帰ってきた夫は、それが最低限のマナーであるかのようにズボンをシワの付かないように折りたたんでハンガーにかけ、私がレンジでチンした夜ご飯の皿を、テレビの前の机へ持って行って、私の好みの色だという、表向きの理由で夫が選んだ、そして実際には手ごろな値段だったというだけの、白いソファーにドッと腰を埋め、ドッと腰を埋めたことが後戻り不可能な動作だと言いたいのか、「あ、座ってしまった。俺はもう立ち上がれないから」と言って、私にレンタル屋で借りてきた映画のDVDをセットするように言いつける、これが週五日は決まって行われるルーティンで、私も夫も自動化されたその過程を変わらず演じ切り、傍から見れば現代社会のパフォーマンスアートともとれるような、けれど当人の私からすれば、たまらなくほどきがたい呪縛、レンジの音のビリビリビリに似た、家事労働の破裂しそうな鬱屈さを思わせるやるせないシーンなのだ。私の不満は、夫には細部としか思えないだろうあらゆる所作や状況が対象だった。例えば、先にソファに座ることで、私にDVDをセットさせるこの行為には、夫のある種の抑えがたい欲望というものが滲んでいて、それは、自分の今から見る映画が何の映画なのか、私に見せつける誇示心の表出であり、自分の好きな音楽を着信音にして周りに聞かせたり、Youtubeを開いて自分の好きな曲をカフェで垂れ流す臆面なき自己主張と同じなのだ。更に、それがどんな映画であるのか、私に気になるように仕向け、私の口から質問を引き出したい、質問を受けて自分の先行知識や、そのジャンルに自分がどれだけ通暁しているかを見せびらかし、披露したい、そんな段階まで期待しての行為に違いないのだ。だから私は、DVDを見て、それをレコーダーに入れるときに、視界の見えない隅から注がれる、下卑た欲望のジリジリジリを、無言の押し通しで切り抜け、無言の贈与で勝利を誇るのだ。それは私の考え過ぎだ、と思われるかもしれないけど、そんなことはない。夫は何かにつけて自分の知識の深さを教え込み、妻がまるで塾生のような立ち位置に収まることが彼にとって快適なのか、それを望んでいるのか知らないが、とにかくこの俳優は私生活がどうでとか、ホワイトトラッシュってのはアメリカのうんたらかんたらでとか、この映画はこれこれに影響を与えてとか、蘊蓄を語りだすと、映画の再生も忘れて話し込む。私は何度もそういう経験をしたことがあるので、夫のスイッチが入らないよう周到に、彼の饒舌に繋がる配線を、ひとつずつ抜いて、不必要な電源コードをさっさと巻いて片づけてしまうのだ。たこ足配線は「発火」の危険性がある、というのはよくCMで聞く文句だし、コンセントを踏んじゃうのも危ない。
 私と夫の間には一人息子がいて、息子が高校生のときまではこの家も団欒で華やいでいたはずなのに、今はもう大人しくて地味で、遠くの道路を走るバイクの音がよく聞こえるような寂しい家になった。というのも、息子は東京の大学に行ってしまって、今は都会で一人暮らし、私たちは二人暮らしの生活になってしまった。それに、この家での、私たち二人分を掛け合わせた幸福量よりも、息子のアパートでの幸福量の方が、よっぽど多いに違いない。私は、息子が出ていくと幾分か自分の家事負担も減って楽になるだろうと、呑気に思っていたが、結局現実になったのは、夫との生活があまりに無言に満ちていて、どうしてこれまでそれなりに賑やかでいられたのだろうかと不思議に思うほど、自然な無言がやってきて、そのせいでこの前まで普通にこなしていた家事が、もっと深刻に「しんどさ」のありのままをまざまざと体に負担してくるという思わぬ事態だった。どうしてこんなに静かになったのか、というのは今でも謎なままだ。息子がいたときの会話を思い出してみると、私が気付かなかっただけで、実は息子が学校から持ってくる話題や、息子のテキトーなつぶやきみたいなものが、私たちの会話のネタになっていたことが多いのかもしれないと思った。それに多分それだけではなくて、息子がいるという状況が、親の私たちにちょっとした義務感を与えて、そのおかげで円滑になっていたところもあるのかもしれない。とにもかくにも、これまで十何年も続いていたバランスが崩れると、なかなかによりを戻すというか、また再び新しいバランスを作り直すということが難しいのだな、と痛切に思った。歳のせいかしらん。そう思うことも不意にあった。いずれにせよ私と夫のエネルギーが、乾燥機にかけられたみたいに乾ききって萎んでしまったのは間違いなかった。
 映画は、そんな家の無音を覆い隠す、見せかけの賑やかさとして二人の間を取り繕った。二人で食卓に座っても、会話もなくぎこちないだけなのだから、映画を相手に食べるのは筋の通った判断だった。夫にとって、自分の意に適った映画を見ながら、安いビールを飲むのは幸せだろうし、私は自分にとって心外で、面倒な小言を聞かないで済む。映画は、家にぽっかり空いた無言の隙間を、銃撃の音や馬の走る音、一度も言い間違えたり、噛むことのない流ちょうすぎる喋り声で埋め合わせ、私たちが無駄な会話でギスギスするのを防いでくれる便利な緩衝材だった。
「おい、紗江」
 夫はモノクロの西部劇を前に、俯きながら何かガサゴソやっている。
「なに?」
 私は紗江なので返事をしなければいけない。
「なんでニンジン入っとるんや」
 夫の肩越しに机を見ると、丁寧に一枚ずつ薄切りのニンジンをコンソメスープから取り出している。いつもはニンジンが入らないよう気を付けているのだけど、今日はうっかりスープに入ってしまっていたらしい。
「ちょっとぐらい食べや」
「ちょっとじゃないが。こんなに入っとるぞ」
 箸で、別皿に取り出したニンジンをつつきながら、文句を言う。
「それぐらいやん」
「こんなにいっぱい入っとって食べれるか」
 無駄に響く声で、そう言い放たれると、私の苛立ちも呼応して沸々と膨らんでくる。大体ニンジンくらいで不満を言われるのが腹立たしい。ビールが切れている日には、「どうしてビールがないんだ」とあたかも私の過失かのように言われなきゃいけないし(自分で買えばいい)、料理の際に油が散っても大丈夫なように新聞紙を敷いてた日には、「おい、新聞が汚れとるぞ」と文句を言われなきゃいけない(汚れてるのは一面だけなのに)。
 細かいことをいちいち口にしなくてもいいだろう、どうしてこうもなじられなければいけないのか。私の苛立ちは、夫の背中へ向かう視線にギリギリギリと込められ、常よりも百万倍力のこもった眉間が、危うくグギグギグギと怒りの音を立てるところだった。
「どうしてこんなおばさんを選んだんやろな」
 それは一瞬、私のことかと思った(そしてたまらずグギッと鳴ってしまった)が、テレビを見ると、リーゼント風なクルクルパーマの女優が、汚いカウボーイの男衆を前に、ウイスキーを注いでいる場面が映っていた。女優の顔は確かに、ちらと見た限りでは、やや老けているように見えた。
「監督が年増が好きやったんかいな」
 私は夫の後ろの机で、家計簿アプリをいじっていた。
「それにしても見栄えがせんよなぁ、女優がこれやと」