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短編集30(過去作品)

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真っ赤な手帳



                真っ赤な手帳



 昨日のことである。
 手島博次はいつものように通勤のため駅に急いでいた。その日は会社で会議が朝からありその準備のためにいつもよりも少し早めに家を出た。季節は秋も深まりかけ、かなり日の出の時間も遅くなっていた。
 駅へと向かう人も少なく、まだ車はヘッドライトがついている。昨夜も仕事で遅くなったので、まるでさっきと同じ道を逆に歩いていたような気分だ。暗い時間帯に家へと向かうことはあるが、逆のパターンはあまりなかった。雲の合間からそろそろ眩しい朝日が顔を出してくるはずだ。
 風が冷たかった。前の日の夕方まで残っていた雨はすでに止んでいたのだが、冷たさだけは残っていた。アスファルトを照らすように走る車のヘッドライトを感じていた。
 ジョギングをしている老人とすれ違った。真っ白なシャツに真っ白な鉢巻を掛け、この時間でないとお目にかかれない人だけに、実に新鮮な感じがする。
 健康マニアなのか、それともただ単に走るのが好きなだけなのか、見ていて羨ましく感じる。
――こっちはこれから会議で吊るし上げを食うんだぞ――
 心の中で叫んでいたが、視線もきっと恨めしそうにしていたことだろう。
 会社ではいわゆる初級管理職になるのか、年功序列の肩書きも最初は嬉しかったのだが、仕事の本質を知るうちに辛くなるだけだった。自分が下にいた頃には分からなかったが、下からの突き上げがこれほど辛いものだとは思わなかった。まだ、上には課長がいるので直接の攻撃は上から受けることはないが、確実にそれまでと違う目で見られている。下の面倒をみることを義務付けられているポストとして見られるのだ。
 老後に果たしてジョギングをしているような老人になれるかどうかも分からない。とにかく今の仕事を無難にこなすだけを最優先に考えている。通勤時間にそんなことを考えなければならないほど情けないことはない。しかも、それも無意識に考えているのである。意識して考えているのであればいいのだが、無意識なところに時間のもったいなさを感じる。
――仕事のことを他で考えるなんて――
 仕事とプライベートの切り分けだけはしっかりしているつもりだった。それがモットーであり、だからこそ、仕事もプライベートも充実しているのだと思っていた。それが管理職という名がついた途端に脆くも崩れるなど、情けなく思っても仕方のないことだ。
 仕事を真面目にすることが自慢だったが、それも趣味があってのこと、趣味の時間が仕事によって蝕まれることを極端に嫌った。だから業務をテキパキとこなす、こなすから仕事の時間が充実する。早く終わればそれだけ趣味への切り替えが早くできる。いいことずくめではないか。
――仕事って楽しいものなんだ――
 後輩の中には、
「仕事だから仕方なしにやってるだけですよ」
 と言っていたが、それはそれでもいい。しかし手島はそんな連中をかわいそうだと思うようになっていた。
「どうせするなら楽しくしないと面白くないじゃないか」
 と、後輩に話したことがあるが、
「そんなことを思っているのは手島さんだけですよ。羨ましいな」
 と言いながら視線は変人を見ているように思えて、気持ちのいいものではない。
「羨ましい? 僕には君たちのそんな目をかわいそうに感じるんだよ」
 さすがにその言葉にはムッとしたようだったので、それ以上の話はしなかった。会社の帰りに呑みに行った時であるが、アルコールの席ということで許されるにも限界がある。限界を超えればそこから先は修羅場と化すかも知れない。寸前のところで回避できたと感じたが、その時にあまり露骨なことを言うと恐いのを感じた。
――所詮は、仕事上の顔と仕事から離れての顔はまったく違うんだ――
 そう考えればあまり呑みすぎるのも恐ろしい。後輩が羽目を外しても少しくらい多めに見るくらいの余裕が必要だということだ。会社までの道を歩いていて、いつもであれば仕事の段取りを考えているはずなのに、その時は珍しくそんなことを考えていた。
 歩きながら自然と視線が下がってくるのも手島の特徴だった。前を見ているつもりでも考えごとをしているとどうしても視線が下がってしまう。ということは、最近の手島はいつも俯き加減で歩いているということを表していた。
 その日はヘッドライトが眩しかったのもあった。雲の影から昇ってくる朝日もそろそろ眩しくなりかかる頃で、夕方で言えば「凪」の時間を思い起こさせる。
 そういえば先ほどまで吹いていた寒いくらいの風が止んでいるのに気がついた。それほどの距離を歩いているわけでもないのに、かなりの時間が経ったように思う。あれだけ強かった風が、ほとんど止んでしまったからであろうか。先ほどまでの老人もすっかり見えなくなってしまっていて、駅近くにある公園に朝日が当たっているのが見えてきた。
――いつもだったら、そろそろ起きる時間だ――
 と思い、昨日の朝のことを思い浮かべていた。
 昨日は月曜日。皆休み明けで心なしか顔色も悪く、憂鬱さが滲み出ていた。リフレッシュしたはずではないのかと感じ、自分もそんな顔になっているのかと思うと、恐ろしかった。
 日曜日には久しぶりに街に出かけて歩きまわった。リフレッシュを兼ねてだったが、正直疲れたのも事実だ。しかし、心地よい疲れだったので、精神的にはリフレッシュできたのだろう。だが、寝起きだけはそうもいかず、いつものように現実に引き戻された気持ちが辛さを誘った。
 重い瞼をこじ開けるのはいつであっても辛いものだ。朝日がカーテンから差し込んでくる。昨日はお腹に違和感を感じていた。何となく重たい感じがして、これも目が覚めるにしたがって引き戻される現実を思い出すからではないかと思えた。
 お腹の違和感は、身体を起こし、洗面所で顔を洗う頃には消えていた。元々精神的にきついことがあると胃と同様にお腹にも違和感が出てくる方だった。昨日は胃が痛いというところまではなかったのは幸いだったが、それでも一日中身体が重かったのは朝の腹痛によるものが原因だったに違いない。こんなことは仕事での悩みでもない限りありえないことだ。
 朝の目覚めはお腹の違和感以外は悪くなかった。元々朝食は食べない方なので、起きて顔を洗うとテレビをつける。コーヒーだけは沸かすので、部屋の中に香ばしい香りが漂っていると、ひと時の安らぎを感じる。だからコーヒーはやめられない。
――こんな時、そばに女性がいてくれたらな――
 何度感じたことだろう。そう感じると、その日の夢を思い出した。
 コーヒーの香りの中、朝日が浴びているかのようにピンクのエプロンが淡く光って見える。そこに立っているのは、髪の長い女性で、見たこともない人だった。今まで手島が自分の理想だと思っていた女性とは少し雰囲気が違う。どちらかというとショートカットかポニーテールが似合う人で、小柄な雰囲気を理想の女性と考えていた。夢に出てきた女性は背中まで伸びたロングヘヤーがサラサラと風に靡いているようで、背もスラリと高かった。最初に見たのが後姿だったせいなのか、思わずドキリとしたのだ。ここまでドキッとしたことがあっただろうか? しかも夢の中である。
作品名:短編集30(過去作品) 作家名:森本晃次