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短編集27(過去作品)

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影の世界



                 影の世界

 時々、自分の性格が嫌で嫌でたまらなくなることがある。普段はそうでもないのだが、それだけ寂しさがこみ上げてくるのだろうか。孤独感に苛まれる。
 小さい頃は何も分からなかったこともあってか、人に気を遣うことが一番大切だと思ってきた。だが、最近になって自分が一番可愛いのだということに気付き始めると、露骨に気を遣っている人を見て、虫唾が走るほどの嫌悪感に包まれている。
 例えば喫茶店などのレジでよく見かけるおばさんたちの醜態、
「私が払いますわ」
「いえいえ、そんなことをされてはいけません。ここは私が」
 後ろで人が待っていようがお構いなしだ。後ろで待っている人もイライラしているのだろうに、文句一つ言わない。確かにおばさん連中に今さら文句を言ったところで治るものでもないだろうし、波風を立てたくないのだろう。
 だが、三橋はそれでは気がすまない。もし自分が後ろで待っている立場ならば、いくら相手が露骨に嫌な顔をしようと、必ず文句の一つも言っただろう。言わなければ分からないからではない。そのまま見過ごすと自分自身の中に気持ち悪さが残るからだ。自己満足だと言われてもいい。それでもその場を自分なりにスッキリさせないと気がすまない。
 おばさんたちはどんな表情をするだろう。それを考えただけでもゾクゾクする。嫌なやつだと思いながらもなるべく穏やかに事を済ませようとするに違いない。しかし、顔は引きつっていることだろう。そんな様子を思い浮かべ、してやったりと思う自分も想像できる。
 日常の些細なことで、そんなにイラつくようなことではないのは分かっている。だが、いちいち気にするようになったのはいつからだったのか、自分でもハッキリと覚えていない。
 そんな三橋に親友はおろか、友達が増えるはずもない。大学時代などは簡単に友達ができたが、次第に疎遠になっていったりした。普通ならそこで悩んだりするのだろうが、三橋はあまり気にする方ではなかった。
――また新しい友達が湧いてくる――
 というくらいにしか考えていなかった。離れていった友達は結局、自分を分かってくれないだけだなどと勝手なことを考えていた。
 三橋自身、それを勝手な考えだと分かっている。自分のことは誰よりも自分が理解しているという気持ちが根底にあるから、まわりのことをいちいち気にしないのだ。まわりに気を遣って、それで自分が目立たないくらいなら、一人でいる方がマシだという考えである。他の人にまったくない考えだとは思わないが、極端なことは分かっている。それでもいつか同じような気持ちの人が現れるだろうという考えは虫が好すぎるのだろうか?
 三橋は小学生時代、何も考えない少年だった。いや、いつも何かを考えているのだが、それが結論として出てこないので、考えていないように見える。結論が生まれなければ行動に移せない性格だったのだ。
「君はどうして宿題をやってこないんだ?」
 小学生の頃、何かといえば先生からよく言われた。
 宿題を出されたことを本当に忘れてしまっていたのだ。宿題をすることの意義についてまるで究極のテーマのように考えていたので、無意識な拒絶反応が働き、そのため本当に忘れてしまっているのだ。
 頭の中の容量には限度があると思っているので、必要以上のことは考えないようにしていたのだと思ったのは、かなり後になってからだ。子供心にそこまで考えていたかは疑問だし、大きくなってからの言い訳のようにも感じる。それだけ成長したと考えたかった。
 だが実際には成長などしていない。さらに意固地になってしまっているのが事実で、まわりを見れば見るほど理不尽に感じられることが多い。きっと一つ歯車が狂ってしまえばすべてが外れているように見えるからだろう。そういう意味で、
――歯車さえ噛み合えば、いずれは普通に見えてくるのだ――
 と思って深く考えないようにしていた。
――普通って何だろう?
 そんな考えが頭をよぎる。今の自分が普通でないことは分かっているが、何を基準に普通なのか分からない。それは、
――何が中心か――
 ということではないだろうか。
 例えば東京の人間で、
「東京弁こそ標準語だ」
 と言っている人がいるようだが、東京弁のどこが標準語なんだろうと頭を傾げる人の方が多い。江戸の昔から住んでいた人は特にそうではないだろうか。これこそ何が中心なのかを勘違いしている証拠と言えよう。
「俺は普通の人間だ」
 と自分から豪語する人がいるが、
「どこが?」
 と一言聞いてまともに答えてくれた人間を三橋は知らない。「普通」という言葉の意味を今さらながらに考えている三橋にとって究極のテーマなのかも知れない。
 「自己犠牲」という言葉がある。自分を犠牲にしても他人のためになる人のことをいうのだが、それは人間にとって一番の美徳とされるものだ。宗教的にもそうだろうし、道徳的にも人道的に言っても、すべて美徳として挙げられる。
 三橋はその美徳を自ら拒んだ。
――自分にはできない――
 という思い込みが最初からあるからだろうが、偽善にしか思えないのだ。自分が犠牲になることで、目の前にいる人が助かるかも知れない。だが知らないところで誰かに迷惑をかけていないとどうして言えるだろう。
 例えば車の渋滞の時にしてもそうである。割り込んでくる車を自分の前で入れてあげれば、目の前の車はありがたいだろう。しかし自分の後ろに控えている車は果たしてどうだろう? 自分が車を一台入れてあげたために、ちょうど自分のところで信号が変わってしまえば、
「お前が余計なことをしなければ、俺だって行けたんだ」
 ということになる。些細なことだが、小さな親切が気付かないところで大きなお世話になってしまうことがあるということだってあるのだ。
 果たしてそこまで考えなければいけないのかと言われればそれまでだが、少なくとも、小さな親切が自分の中の自己犠牲として、結局は自己満足だけに終わってしまって、気付かないのは悲しいことだ。
 三橋は自己犠牲を自己満足のための道具に使いたくない。元々自己満足という言葉が悪い意味で使われること自体、三橋は嫌だった。
「自己満足の何が悪い。自己満足を悪く思うやつこそ、自己満足の何たるかを知らないんだ。自己満足を知らなくて、何が人を満足させられるものか」
 そう言って、飲み屋で大声で話しているおじさんを見たことがある。他の客は、
――いい加減にしてくれよ。そんな大声出されたんじゃ、酒がまずくなる――
 と言いたげに、冷たい視線を浴びせていたが、三橋は、心の中で、もっともだと頷いていた。
 自己満足という言葉はある意味都合のいい言葉だ。相手の悪いところを指摘する場合にあいまいな表現を使いたい時などには実にいいかも知れない。相手を傷つけたくないが、悪いところを指摘したい時にグレーゾーンに持ち込む。そんな時に利用する言葉なのだろう。
 特に自己満足は誰の中にもあって、いいことなのか悪いことなのか、自分でも分かりにくいところである。人から指摘されれば悪くなくとも悪いもののように思えてくる。実に言葉というのは、時と場合によっては、重宝なものだ。
作品名:短編集27(過去作品) 作家名:森本晃次