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短編集26(過去作品)

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もしもし…



                  もしもし…

「あの、どちら様でしょうか?」
 相手の息遣いを感じる。普通に話している分には気にならないのだろうが、日高光弘にとっては、かけがえのない時間なのだ。
 決して相手の話に対して返事をしない。相手がこちらの様子を探っているとみるや、わざと息遣いを聞かせてみせる。
 それで電話を切るような相手であれば、それはそれでいいのだ。別に気にすることもない。相手が少しでも反応を示せばそれで満足なのだ。電話に出たのが男であれば、何も言わずに切ってしまえばいい。後でいろいろ想像するのも楽しいものだ。以前であれば良心の呵責からか、あまり気にしないようにしていたが、最近では感覚が麻痺してきたのか、思いを巡らすのも楽しくなってきた。
――新婚家庭か何かで、ご主人さんが嫉妬深い人だったりして――
 などと想像すると、その後に繰り広げられる光景も思い浮かぶようになった。最悪の修羅場すら思い浮かんでしまう自分が怖くなることもあるが、この遊びに興じている時間は面白いという感情以外、何ものもない。
――今頃、茶碗や鍋が飛んでいるかも知れない――
 アニメの世界でしか見ることのできない光景が思い浮かんでくる。昔のモノクロ映画のようなぎこちない動き、想像しているだけで、余計に修羅場と化した雰囲気が迫ってくるように思える。
 飛び交うはずのないものが飛び交っているのだから、さすがに同じ時間を共有しているようには思えない。湿気に満ちた空間が思い浮かび、飛び交うものがスローモーションに見えてくるのだ。そこは海底か宇宙空間のように、ゆっくりとした時間が行き交う世界なのだ。
 電話の向こうから聞こえてくる息遣いは、そんな過密な空気の中で行き場のない感情を凝縮するかのような反動が表に向けられているのだ。同じように湿気た空気があたりを支配しているに違いない。
 日高の気持ちはどうなのだろう?
 同じ場所を決して動こうとせず、ずっといても疲れを感じない。自分が思っているよりも時間はあっという間に過ぎていて、気がつけば想像していた時間をはるかに越えていた。
 息遣いというものを気にするようになったのはいつからだっただろう。
 あれは大学に入学して初めての一人暮らしの時だった。コーポのようなところでのアパート暮らしだったが、六畳一間にバストイレと、大学生アパートとしては普通だっただろう。ただ築が十年以上と、少し旧式のアパートでもあった。隣室の音が容赦なく入ってきて、寝付かれないこともあるくらいだった。
 学生アパートということもあってか、どうしても夜騒ぐ連中がいた。それまで自分が神経質だなどと思ったことのない日高にとって、騒音というものを気にすることはなかったはずなのに、一度気になってしまうと、気にせずにはいられなくなっていた。
――ここは自分の城なんだ――
 と思い込むようになったのは一人暮らしを始めてからだろう。密かな憧れでもあった。
 友達を呼びたくなる気持ちも分かる。まわりが気にならなくなるのも仕方ないだろう。だが、騒ぐというのはいかがなものか。日高は理解に苦しんだ。
 最初の隣人が騒ぐ学生だった。三年生で一番騒ぎたい歳だったのだろうが、そのうちに引っ越していった。どうやら、他の部屋から苦情が出たようだ。その話は後になって聞いたことだが、苦情が出ても当然で、知っていれば自分も苦情の一つも言ったのにと、悔しくなったものだ。
 引越し先は分からないが、二度と会うことはなかったので、相手が意識してこのあたりを避けていたのかも知れない。確かに悪質ではあったが、そこまで神経質になる必要があるか疑問である。自分の知らない話が持ち上がっていて、知っている範囲以外でもかなり顰蹙を買っているに違いない。
 しばらく隣の部屋は空室だった。シーンと静まりかえって、今までと明るさが変わったわけでもないのに、あたりが薄暗い。何よりも影がハッキリしてこないのだ。
 風もないのに冷たい空気が行き交うのを感じる。普段が暖かいわけでもないのに、冷たさをハッキリと感じるのだ。こわばってしまったかのように固まっている身体がそれを表している。
 あまりにも冷たく凍てついていると感覚がなくなってしまうが、ちょうどそんな感じであろう、他の人が触ればカチンコチンに冷たくなって、まるでドライアイスのような身体になっているに違いない。
 風の通り抜ける音だろうか。時々すすり泣くような音が聞こえる。途切れ途切れで、その音が聞こえてきた時に限って何やら人の気配を感じるのが恐ろしい。別に人の気配が恐ろしいわけではないが、風の通り抜ける音が人の声のように感じられることが恐ろしいのだ。一人暮らしの部屋に空き家の部屋から人の気配を乗せた音が聞こえる。これほど、気持ちの悪いものはない。
 ある日大家さんが部屋を見たいという人を連れてきた。偶然通路を歩いているのを覗き見ただけだが、大人しそうな女性であった。後姿だけだったのだが、正面から見えなかったことがこれほど残念だと思えるほど、後姿は魅力的だった。
――ひょっとして隣の部屋に引っ越してくるのでは――
 と思うから余計になのだろう。
 果たしてその女性は数日後に引っ越してきた。引越しといっても、それほど大袈裟なものではなく、さしあたって必要なものだけを取り揃えたという感じだった。簡単な引越しが終わって挨拶に訪れてくれたが、その時も蚊の鳴くような声で、何と言っているか分からなかった。最後の一言、
「よろしくお願いします」
 という言葉だけがハッキリと聞こえた。その時の表情だけが微笑んでいた。
 表札を見て、彼女の名前が相沢里絵であることを知った。最初の挨拶の時に名前を聞いたのだろうが、あまりにも声が小さく聞き取れなかったのだ。終始下を向いて話す人で、髪が長いせいもあってか、最後の笑顔以外、表情が分からなかった。
 日高自身あまり部屋にいる方ではないが、里絵が部屋にいる気配を感じることは稀だった。深夜は部屋にいることが多い日高だが、その半分も隣の部屋に人の気配を感じたことはない。
――これじゃあ、前と同じじゃないか――
 いや、前よりも隣の部屋に大きな空間を感じる。
 たまに里絵の気配を感じると安心した気分になる。何やら暖かいものを感じるのだが、そのうちに少し違った感覚も出てきた。何を言っているのか分からないのだが、話し声のようなものが聞こえる。ボソボソとした声はまるで地の底から聞こえてくるようで、小学生の頃近くにあった古井戸を思い出した。
 その古井戸は、神社の敷地内にあった。境内とは反対の裏庭にあったのだが、その奥に小さな祠が建てられているのが却って不気味だった。小さい頃はそんな雰囲気などお構いなしだが、大人は気持ち悪がっているようだ。
「あそこで遊んじゃいけません」
 どこの親も口を揃えていた。危険区域として指定していたのかも知れない。確かに晴れの日が続いてもその一体はいつも湿気ていて、土は粘土質のように絶えずドロドロになっている。しかし、子供というのは親が考えているほど素直ではない。そう言われれば言われるほど逆らって立ち入りたくなるものだ。日高や友達も類に漏れず、よく遊びに行っていた。
作品名:短編集26(過去作品) 作家名:森本晃次