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ショートショート集 『一粒のショコラ』

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ー36ー 遠いあの日


 子どもの頃に戻りたい……
 そんな想いにかられる時がある。センチメンタルなどという甘い気持ちからではない。現実から逃れたいという切実な思いを含んでいるのだから。
 
 アルバムの中で、幼き日の私は屈託なく笑っている。傍らにはやさしい母の姿が。カメラを構えているのは父であろう。両親の愛に包まれ、幸せそうな私がそこにはいた。
 そんな父も母も、もうこの世にはいない。今や私自身が母という立場になっていたのだ。そして、あの頃の母のように、私も子どもたちを大切に育ててきたつもりだった。
 ところが、反抗期を迎えた子どもたちは私に見向きもせず、やがて、それぞれの道へと巣立っていった。一人前の人間に育て上げ、親の役目を果たしたのだから、それで充分なのかもしれない。あとはただ、夫と二人、寂しい老後を迎えるだけだ。
 あり余る時間は、空しさとともに私を遠い子ども時代へと運んでいった。若さを求めているのではない。誰かに愛されたいのだ、無条件に。そう、あの子どもだった頃のように……
 幼き頃は、親の愛情を無限に与えられていた。私が幸せであることが親の幸せであるということを、子ども心に感じていた。しかし、そのように家族が一体化するのは、幼い子どもが存在する時期だけなのかもしれない。
 
 私の子どもたちも同じように、母としての昔の私を恋しいと思う時があるのだろうか? ふと、そんな疑問が湧いた。きっとないだろう。それを感じるとすれば、もう私とは会えなくなった後に違いない。そう断言できるのは、私がそうだったからだ。
 何事も、失くした後でその有難みがわかるものだ。
 そんな中、私に、さらにその有難みを痛感せざるを得ない事態が待っていた。夫が逝ってしまったのだ。
 当たり前のように存在してた人、親よりも長く人生を共にした人が突然消えた。私に寄り添ってくれる人は、もうどこにもいない……私はその日からアルバムの中の人間になってしまった。
 かわいい洋服を着せられ、母に甘える幼子……
 私はその写真を飽きることなく見つめ、そのアルバムは一日中、閉じられることはなかった。
 
 ところが、そんな日々を送る私の知らない所で、状況は大きく動いていた。子どもたちは相談を重ね、夫の法要が終わり、日常が戻って来た時、私はその話を聞かされた。
 それは、次男の住んでいるマンションの隣の部屋が売りに出ているので、私にそこに来ないかということだった。そして、今の私の家には長男一家が入り、私に家賃を払うという。その家賃を月々の支払いにあて、頭金は夫の遺産から出して、マンションに移り住むことを勧められた。
 スープの冷めない距離、程よい距離を保ちながら、みんなでうまく暮らしていこうという子どもたちからの提案だった。家を手放すわけではないので、いつでも親父との思い出の詰まった家に遊びに来てもらえるから、と。
 そして、いつか、私がひとりで暮らしていけない時が来たら、この家に戻っていっしょに暮らそう、その頃には自分の子どもたちも大きくなっているだろうから、交代でマンション住まいをさせればいいのだから、とも。
 私のことをそんな先のことまで考えてくれていたなんて……私は心から有難いと思った。
 たしかに、この歳でひとりで暮らすには、無駄な部屋のある一軒家より、マンションの方が機能的で住みやすい。実際、子どもたちが出て行ってからは二階に上がることも滅多になかった。そして、夫が亡くなってからは外へ出ることさえなくなっていた。
 
 
 それから数年後――
 私は今、見晴らしの良い外を眺めながら快適な日々を送っている。隣からは、毎日のように惣菜が差し入れられる。それを届けてくれる孫が遊んでいき、嫁が迎えに来て世間話に花が咲く時もあった。
 そしてある時、私の大切なアルバムを見つけて孫が聞いた。
「これ、ばあば?」
「そうよ」
「だれにだっこしてるの?」
「おかあさんよ」
「ばあばにも、おかあさんがいたの?」
「そうよ、やさしいおかあさんがいたのよ」
 私はそう言って、写真の中の母のように孫を抱きしめた。すると、孫も、写真の中の私のようにうれしそうに笑った。