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ショートショート集 『一粒のショコラ』

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ー37ー デジャブ


 バスを降りた瞬間、私は前にもここに来たことがある、ふとそんな思いに駆られた。そんなはずはない、この町に来たのは今日が初めてだった。
 バス停は小さな商店街のはずれにあった。次の角を曲がると、きっと田んぼが広がっているはず、なぜか私はそう確信した。そしてその通り、角を曲がると見渡す限りの田園風景が広がっていた。
 なぜ、私はここにいるのだろう? あのバス停で降りたのはほんの気まぐれだった。そもそもあのバスに乗ったのさえ。ただ誰も知らないところへ行きたかっただけ……


 体の弱い母を介護しているうちに婚期を逃した私―― そんな私に、遅い春がやってきた。それを一番喜んでくれたのは、他でもない母だった。夫を早くに病気で亡くし、丈夫でないのに無理をして女手ひとつで私を育ててくれた。やっとこれでその母に親孝行が出来ると思った。
 ところが、その男はとんでもない詐欺師だった。わずかではあるが、貯めておいた結婚資金を奪い、男は姿を消した。お金も悔しいが、それ以上に母の落胆を思うと涙が溢れた。母に合わせる顔がない……たまたま通りかかったバスに私は乗った。

 
 畦道を歩いていると、農作業をしている農家の人に出会った。なぜか、その人にも前に会ったことがあるような気がする。気さくに話しかけられ、塞いでいた心が少しだけ晴れた。
 さらに歩いていくと、一軒の農家に着いた。不思議なことにこの家を知っている、そんな気がした。
 軒先で野菜を洗っているおばあさんに声をかけた。すると、まるで私が来るのを知っていたかのように、その老婆は手を止め、私を縁側へと招いた。そして、お茶と梅干を勧めてくれた。
 その梅干を口に入れると、何とも言えない懐かしい味が口いっぱいに広がった。目の前には見渡す限りの田んぼ。こんなことが以前にも……そんな不思議な思いがした私はそれを確かめるように、もう一粒梅干を口にした。すると、それが合図でもあるかのように、老婆は静かに語り始めた。
 

 この家に語り継がれる昔からの言い伝え――
〈昔々、この家の孝行娘が若くしてこの世を去った。その間際、愛しい娘に母が言った。辛い時はいつでも帰っておいで。元気が出るあの梅干を用意して待っているから、と〉
 老婆が自分の母親から聞いた話では、一度だけ、疲れ切った様子の若い娘が、この家を訪ねて来たことがあったそうだ。そして、その見知らぬ娘に梅干とお茶を振る舞ったという。すると娘は元気になって帰って行ったそうだが、その娘こそ、昔この家で亡くなった娘の生まれ変わりだと、老婆の母は信じていたという。
 
 それでは、私はこの家の娘の生まれ変わりなのだろうか?
 辛い時に呼び寄せられるように向かう場所―― もしかして、私は生まれ変わるたびにここを訪れていたのだろうか?
 不思議と体の芯から元気が湧いてきた私は、遠い昔に生きた自分と、その私の来世までも気遣ってくれた昔の母に想いを馳せ、その場所を後にした。
 バス停に向かう道すがら、温かい西日に優しく包まれるように私は農道を歩いた。そして、その西日を浴びて映る、足元長く伸びた影法師。どこまでもついてくるその姿は、まるで前世との絆のように思え、ここへ来た時の重い足取りが嘘のように、今はすっかり軽やかになっていた。
 私は昔の母に感謝の思いで別れを告げ、新たな気持ちでバスに乗った。そして、今の私を待つ現世の母の元へと帰って行った。