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『人権』の名の下に

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 鈴木雅美は駅から保育所までの道のりを急いでいた。
 どうしても今日中に終わらせなければならない仕事があっていつもより一時間近く遅くなってしまった、保育所では三歳の娘、真美が迎えを待っているはずだ。
 真美は幼いながら聞き分けが良い、目を見つめるようにして良く言い聞かせると大抵の『大人の事情』を受け入れてくれる。
 今だって、泣いたりぐずったりして保母さんを困らせてはいないだろうと思う、しかし雅美は知っている、娘は淋しい気持と懸命に戦っているはずなのだ。
 だから一分一秒でも早く迎えに行ってやりたい、『ママー!』と叫びながら走って来る我が子を抱きとめてやりたい……速足は次第に駆け足となり、息が弾むほどの速さになって行くが、そんな事は少しも苦にならない。
 雅美は走りながらショルダーバッグを襷掛けに掛け直した、バタバタと揺れて走り難いから、頭の中は娘の事で一杯になっていたのだ……そして背後から近付いて来るバイクには気がつかなかった……。

「きゃぁっ!」
 出し抜けに体が前方へと持って行かれた。
 背後から近付いて来たバイクの男、そいつがショルダーバッグを引っつかんだのだ。
 普通に肩から提げていれば簡単にひったくられただろう、しかし、それならば被害はバッグを奪われるだけで済んだ筈だった。
 しかし、バッグは襷掛けに掛けている、首と右腋がバッグのベルトに引っ張られた。
 しかも雅美はかなりの速さで走っていたので、後ろから押されたり前から引っ張られたりすれば簡単にバランスを失う状態にあった。
 ベルトが首から離れる瞬間、前方斜め下へと強く引っ張られる形になって完全にバランスを失った、更に右腋から離れる瞬間にひねりが加わった。
 雅美は仰向けの状態でアスファルトの道路に叩きつけられ、路肩のL字溝に後頭部を強く打ち付けられてしまった。
 一瞬の事で、何が起きたのか把握できなかったが、倒れてなお、雅美の頭の中はまだ真美の事で一杯だった、少しでも早く真美を抱きとめてやりたい、泣かないように頑張っている真美を抱きしめたい……真美、待っててね、ママはすぐに迎えに行くから……。
 しかし、雅美の意識は急速に薄れて行ってぷつんと消え、そのまま二度と戻る事はなかった……。


▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽


「被告に懲役ニ十年の実刑を言い渡す」
 弁護士の鈴木充は裁判長の判決を神妙な面持ちで聞いたが、内心は満足感で一杯だった。
 ニ十年の実刑判決は決して軽くはない、だが、被告・佐藤信行が犯した罪は無期懲役を言い渡されても不思議ではない重さ、それからすれば充分に短い。
 被告はまだ二十代半ば、脱獄などの罪を重ねなければ遅くとも四十代半ばには社会復帰か可能、人生をやり直す時間は残される、きちんとやり直すか、再び犯罪に手を染めるか、そんな事は知ったことではない。
 罪状は強盗殺人、盗み目的で一人暮らしの裕福な老人宅に侵入し、見つかって騒がれそうになったので手近にあった壷で撲殺する、と言うずさんで短絡的な犯行、物的証拠は多数あり、しかも被告は現場から走り去る姿を目撃されていて、当然アリバイもない……これでは有罪は覆しようがない。
 弁護人に出来る事は少しでも刑を軽くすることだけ、鈴木はありとあらゆる手段を用いてそのことに努めた。
 このようなケースでの常套手段は『心神耗弱』、しかし医師は被告の精神状態をそうは認めなかった、充分な責任能力があると診断したのだ。
 だが、そこからが弁護士の腕の見せ所、医師を質問攻めにして心神耗弱の『可能性』と言う文言を引き出すのだ。
 人間誰しも『絶対に』とは言いにくいもの、医師に対して『絶対にそう言いきれますか?』と何度も念を押すと、大抵の場合は揺らぐものだ。
 検察側からは異議が出るし、裁判官には注意されるが、そこは素直に謝ってしまえば良い、肝心なのは医師に『絶対に』と言う言葉を繰り返し聞かせることなのだ。
 そもそも殺人を犯すような精神状態である、冷徹なスナイパーでもない限り全く平静だったはずもない、ごく些細でも違和感を覚えた部分を拡大し、強調し、仮説を交えて誘導すれば、大抵の医師は『可能性』があったことを認めてくれる。
 『心神耗弱状態にあった』とまでの言葉を引き出すことが出来ない事は承知している、ただ、『100%クロ』と考えていた裁判員の心の中に一点の疑問が湧けばそれで良い。
 裁判は一般人から抽出された裁判員六名に裁判官三名の合議で行われる、今回の裁判ではその中に被告人の人権に手厚い傾向がある裁判官が二人含まれている、彼らが『可能性はゼロではない』と主張してくれることだろう。
 充は被告の生い立ちや現在置かれている経済状況にも言及した。
 幼い頃に両親が離婚し、母親一人に育てられたことを強調したが、母親はスナックを経営していて経済的にはそこそこ裕福な部類であった事には触れない。
 その母親が死去して以来、被告の経済状態が最悪だった事を強調したが、被告はバイトでさえも長続きしていなかった事には触れない、まして、その原因が被告の性格……異常に短気で身勝手、遅刻を注意するというような当たり前の対応に腹を立てて、暴力を振るってはクビになっていたことには決して触れない。
 また、逮捕される際に軽傷を負ったことにも言及、警察が早く犯人を仕立て上げたがっていたという『ストーリー』を暗に示唆する。
 逮捕される時も鉄パイプを振り回して抵抗したことには触れず、検察側からそれを指摘されると、逆に警官の暴力はなかったのかと切り返し、過去にあった警官の横暴な振る舞いをいちいちあげつらってみせる。
 それらが全て否定されるのは承知の上、要は裁判員の脳裏にテレビドラマのような光景が浮かべば良いのだ……つまりは社会に馴染めずはじき出されてしまった男の、切羽詰った末の犯行……テレビドラマなら温情派のベテラン刑事にこんこんと諭されて観念する犯人像、それがちらつけば良いのだ、そういった『感動的なシーン』抜きで有無を言わせず取り押さえた警察の印象が悪くなれば、その分被告の悪い印象は薄れる。
 
 裁判長が閉廷を宣言すると、被告は充を一瞥して連れ出されて行った。
 実の所、この男はニ十年の判決でも不満なのだ、被害者は既に八十代、その余命に対してニ十年は長過ぎるだろうというわけだ。
 そもそも評判の良くない『ごうつくババァ』を殴ることになど何の呵責も感じない、それで婆さんが死んだとしても、どうせこの先何年の命でもないし、婆さんが死んで喜ぶ奴だって少なくない、それに金はあの世に持って行けるわけでもないから、自分が使ってやるのはむしろ社会のためになる、俺は悪くない、悪いのはそれを認めようとしない社会の方だ……。
 被告の意識はその程度のもの、それは何回かの面会でわかっていた。
 だから法廷から連れ出される被告の態度など気にも留めなかったし、その表情を見てさえいない。
 弁護士の仕事は依頼人……この場合は国選だったが、弁護の対象と言う点では依頼人と同じだ……の無罪を勝ち取ること、有罪になったとしても少しでも刑を軽減すること、それに尽きる。
作品名:『人権』の名の下に 作家名:ST