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狭間世界

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。

                  目立ちたがり

――俺って目立ちたがり屋なのか?
 と考えるようになったのは、いつの頃だっただろうか?
 あれは確か中学時代のことだった。本人にはそんな意識はなかったはずなのに、人から言われただけで萎縮してしまったあの時のことを思い出しただけで、今でも顔が真っ赤になってしまう。
 中学生になるまでは、友達と対等な意識はなく、いつもまわりに萎縮している男の子だった若槻祐樹は、中学に入って、まわりが同じ小学校から来た友達と盛り上がっていたり、新しくできた友達と楽しそうに会話をしているのを横目に見ながら、小学生の頃のように萎縮していたのだ。
 小学生の頃、苛められっこだったというわけではなかったが、自分から人に関わっていくことができず、気がつけば、そばを通った人を無意識に避けるような素振りを見せるようになっていた。そんな行動は自分よりもまわりの方が敏感に感じるもので、そのうちに祐樹のそばを通っただけで、わざと足を蹴飛ばすような素振りを見せて、からかわれることが多くなった。
 そんなことをするやつの顔をチラッと覗くと、ゾッとするような悪寒が走った。ニヤッと笑ったその顔の歪に歪んだ口元に視線が集中してしまい、目が離せなくなってしまいそうだった。しかし、その恐怖の方が先に立ち、すぐに顔を背けることを躊躇わなかったことで、祐樹は何とか視線を逸らすことができたのだが、祐樹が今でもすぐに人から目を逸らすのだけは、誰にも負けないほど早くなったのは、この時からだったのだろう。
 祐樹は自分の小学生時代を、中学生になってから忘れてしまった。もちろん、完全に忘れたわけではなく、忘れようと思っても忘れられるものではない。
――思い出したくない――
 という思いよりも、
――忘れ去りたい――
 という思いの方が強いことで、自分に対しての強い暗示を示すことで、まるで他人事のように感じるのだった。
――そうだ。他人事なんだ――
 中学に入ってから、いつの頃だっただろうか。祐樹は、
――自分のことはすべてが他人事だ――
 と思うようになった。
 最初は他人事のように思うということは、簡単なことであり、楽なことだと感じていたのだが、実際に他人事のように思うようになるというのは、自分がまわりに対して萎縮した意識を持ち続けなければいけないということであり、決して楽なことではないということに気付かなかった。
 だから、中学に入ると、
――自分は何でもできるんだ――
 と思うようになっていた。
 もちろん、できることは限られていたが、小学生の頃のようにまわりに対して萎縮していた自分を解放することが、何でもできると思うことだと思うようになっただけのことで、本当に何でもできるわけではなかったのだ。
 とにかく萎縮することにかけては、誰にも負けなかった。それが祐樹の本能であり、無意識と言う言葉が、祐樹の萎縮する態度を示しているのではないかと思えるほどだったのだ。
 苛められっこではなかったはずの小学生時代。実際には自分のすぐそばに苛められている子がいた。
 その男の子は、いつも祐樹を意識していて、苛められながら祐樹を恨めしそうな目で見ていたのだ。
「助けてくれよ」
 そう言っているように思えてならない。
 それなのに、何もできない自分が何を考えていたのか、それは、
――そんな目で見るなよ――
 と思っていたのだが、それは彼に対しての思いではなく、彼が自分を見ることで、他の苛めっ子が祐樹に気付き、苛めの矛先を自分に向けられることが怖かったのだ。
 一緒に山に登って、友達が足を踏み外し、崖から落ちそうになっているのを思わず手を差し伸べてしまった時の気持ちだ。
「助けてくれ」
 という懇願の言葉に対し、祐樹は心の中で、
――どうして手なんか差し伸べたんだ?
 と感じていることだろう。
 彼を助けなければいけないという思いよりも、このままでは自分まで道連れにされてしまうという思いが、恐怖よりも、手を差し伸べたことへの後悔が強くなり、目の前で懇願している友達の腕を切り落としてでも自分だけが助かりたいと思うに違いないと感じていた。
 そして実際にそう感じる自分を他人事のように見ている。それは、逃げの気持ちではない。客観的に見ることで冷静に考えても、自分の考えが間違っていないということを証明したいという気持ちからだった。
 山に登ったという想像は、祐樹にとって、
――自分が萎縮する人間である――
 という意識を持たせることで、さらにそれをいかに他人事のように見ることができるかという発想から生まれた想像ではないだろうか。
 祐樹は自分がそんな少年であるということをその頃から分かっていた。大人になるにつれて分かってきたように思ったのは、最近のことだったのだ。
 いつ頃からだっただろうか、祐樹は山に登った時に崖から落ちそうになるシチュエーションを夢に見るようになった。
――なんてリアルな夢なんだ――
 目が覚めても、すぐには夢であったということに気付かない。しかし、目が覚めるにしたがって、夢であったことを最初から分かっていたように思えてならない。なぜなら、何度も同じ夢を見ているからで、
――また、同じ夢を見ていたんだ――
 と感じることで、すぐに目が覚めることもあったくらいだった。
 夢というのは潜在意識が見せるものだというが、最初にこのシチュエーションを感じた時のことは、鮮明に覚えているように思えた。それが小学生の頃だったのは分かっているのだが、何度も繰り返して見るこの夢も、どんな精神状態の時によく見るのかということまでは、自分でも分かっていなかった。
 子供の頃なので、正当防衛や緊急避難などという法律の専門用語は知るわけもなかったが、
「手を離しても、罪になることはない」
 というのは、分かっていたような気がする。
 だが、夢に出てくる友達が、いつも同じやつだとずっと思っていたのだが、いつの頃からか、相手が別人であるかのように感じるようになっていた。
 それはきっと、自分の中で、
――小学生の頃の自分と、今の自分では違うんだ――
 と感じたからだと思っていた。
 しかし、実際にはそうではなく、やはりここも自分が何でも他人事のように思うことが影響しているからではないかと思うようになったからだった。
 他人事に思うことと、行動として萎縮してしまう自分。同じ人間の中に同居しているのは、どこかおかしいと思うようになったのは、中学の頃からだった。
 確かに萎縮してしまうことで、他人事のように思うことができれば、自分にとっての救いになるだろう。しかしよく考えてみると、他人事に思えるようになってしまえば、萎縮してしまう必要もなくなるのだ。それなのに、萎縮している自分と他人事のように思う自分が同居していると感じたのは、
――ひょっとして二重人格なんじゃないか?
 と感じたからだった。
 この思いは半分違っていて、半分はその通りだった。
作品名:狭間世界 作家名:森本晃次