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貴方とした口付けの味

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私の知っている狭い世界の中で、唯一だった物理の先生が産休に入る。物理というと、男の先生が理科室で生徒の意識が黒板に向かっているかなんて関係なく、ただつらつらと教科書の内容をまさに教科書通りに進めていく授業のイメージしか持っていなかった私にとって、京子先生は私の常識を覆す人だった。教師という職業の人にしては珍しく破天荒で、ときどきこっそり訪れた実験室でコーヒーを一緒に飲んだ。話の内容は恋の話。彼氏とできちゃった結婚目指してんだ、といつも笑ってた京子先生は自慢の彼氏とついに1ヶ月前めでたく入籍。スリムな体型の彼女のお腹だけがぽっこりと目立ち始めた頃に、もう人の手では曲げることが不可能な既成事実を相手に告白したという。なんてしたたかな人だと思った。そして、非常識。だけどそれが許されるくらいに真っ直ぐで優しい人だった。
彼女らしい「子どもができたのでしばらく学校には来ません」という挨拶を聞いた後、実験室へ向かった。11月の放課後は冷えたコンクリートのせいで芯まで寒い。ついこの間まで溶けるほどに焼け付いていたその温度が恋しくなる。
実験室は蛻の殻、そのものだった。今まで窓側に整然と並べられていたキャンドルも、準備室の扉を目隠ししていたリバティプリントの1枚布も、全部なくなっている。わかっていたのにどうしても寂しい気持ちは抑えきれなかった。元に戻ったこの部屋の中で、準備室への扉がいやに目立つ。そうか、京子先生はこれが気に入らなかったんだ。今になってようやく理解できた。あの綺麗なリバティはこの無機質な空間に咲く花であり、肌に圧し掛かる重い空気を円やかにしていた。
まるでそこから何かが発せられているような気がする。そう思うくらいに、何故か分からないけど体は準備室の方へ向かっていた。
意外にも、ほんの少し力を込めただけでそのノブは回った。初めて足を踏み入れたそこは、薬品の臭いに混じって微かに爽やかな香りがする。この狭い部屋の中を見回した最後、こちらに背を向けた黒い布張りのソファの肘掛けで香りの主を見つけた。誰か居る。ソファの影からはみ出した黒い革靴とスーツの足下を頼りに前へ回り込んだ。絶対に黒、と思い込んでいた私の目に飛び込んだのは少し皺の寄った白。わかったことは、規則正しく寝息を立てているらしいということだけだ。薄く染め抜かれた茶色の髪が反対側の肘掛けに押しつけられていた。ゆっくりと上下する胸元が緩やかに描いた曲線は、その下で組まれている腕のせいだろう。形の綺麗な眉にほっそりと通った鼻筋、閉じられた瞼の奥にはきっと深い黒がある。もっと近くで見てみたくて頭もとでしゃがみ込むと、滑らかではない肌に手を伸ばしたくなった。私って変態なのかもしれない。ぷっくりと膨らんだ下唇は赤くて、吸い寄せられそうになる。やっぱり私、変態なのかもしれない。そう考える頭はとっくにこの部屋に充満する匂いで麻痺していたんだろうか。目を閉じて、唇の感覚だけを頼りに行き着く場所を目指しながらそんなことを思う。否定も、躊躇いすらも、浮かんでは来なかった。


「…キスされちゃった」


ほんの数ミリ唇を離した後、もう一度触れそうな距離でその人の声がした。驚いて目を開ける。じっと私を見る黒い瞳が、ふふっと笑った。


「ごめんなさい」
「いや、別にいいけど、俺が寝てたこと偉いせんせー達には言わないでね」


私が立ち上がると、むくりと起き上がったその人は頭を掻きながらそう言う。毛布の代わりをしていた白衣を無造作に横に置いて、再び私を見たその目はふんわり細められていた。


「何でキスしたの?」
「何でだろ…わかんない」
「とりあえず、座る?」
「はい」


よいしょ、と左側に腰掛け直したその人は濃いブルーのネクタイを右手で緩めた。


「苦くなかった?」
「え?」
「いや、さっき事務のおねーさんが出してくれたコーヒー、めちゃくちゃ濃かったんだよ。あんなインスタント初めて飲んだ」


そう言われて自分の唇の味を確かめてみると、舌先にじっとり苦みが伝わる。


「苦い…」
「やっぱり?だと思った」


思わず呟いた言葉に、その人は面白そうに返事をした。


「また遊びに来なよ。月曜からここ、俺の城になるから」
「え?」
「赴任前に生徒にキスされたのも初めてだけど、この学校ではお前が俺の知り合い第1号になるわけだし」
「先生同士で顔合わせしたんじゃないんですか?」
「あんなお偉いさん達、知り合いなんて言えねーよ」


ハハッ、と短く笑った顔はとても幼く見えるけど、この人を彩る雰囲気は大人の男の人そのものだ。私にとっても第1号。父親以外で、こんなに近くに座った大人の男性第1号。初めてのキスは、コーヒーの味がした。
作品名:貴方とした口付けの味 作家名:マユリ