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狐の嫁入り

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[結]



突き出しが済めば愈愈、水揚げ
相手は楼主さんが選んだ、妓楼の常連客
其の道に熟達した通人、そして、財力豊かな者

好好爺風情の中老男が、少女の手を引き寄せながら笑う

『お前さんは、恵まれておる』
『姉さん女郎の世話にもならず全て、花車さんが面倒見てくれたんじゃから』

節くれ立った中老男の指が少女の白い、滑らかな手の甲を這う
丸で死にぞこないの、不格好な蜘蛛が行ったり来たり

『しっかり、ご恩返しするんじゃよ』

笑い皺の深い、黄色味を帯びた血色の悪い顔
反面、妙に赤い薄っぺらい唇がにやりと気味悪く、笑う

『其れが、お前の行く道』
『其れが、お前の生きる道』

そう、言いなす中老男の言葉に少女は目を瞑る

閉じた瞼の裏に居座る
笑みを浮かべる着流し姿の、男

束の間の夢でも構わない
そう思い、肌に触れた
そう思い、あの人の肌に触れたのだ

あの人の鼓動に触れ
あの人の息遣いに触れ

あの人の冷えた温もりに、触れた

今も、触れている気がするのに

少女の手の甲を這い回る、中老男の指
懐炉のように火照る、熱を帯びた湿った指が少女の指に絡まる

熱い
熱いけど、何か違う

絡め合う指から感じるのは、自分の熱だけ
中老男の熱は、冷めている

冷めている処か、凍える

少女は其の冷たさに戸惑い、目を開ける
落とした視線の先、すらりと伸びた青白い指
手の甲を滑り幼い指を撫で、桜貝のような爪を軽く、摘まむ

少女は、其の指を食い入るように見つめる
少女は、其の指を知っている

恐る恐る、息を呑む
そうして、静静と顔を上げた少女の目の前には
薄い唇が弧を描くように微笑む、着流し姿の男が居た

其の顔は白く透き通り、艶かしいまでに美しい
灰色がかった黒い、墨色の長く垂らした前髪の隙間から覗く
切れ長の、猩猩緋色の目が少女を見つめる

黄色を帯びた、鮮やかな深紅色
目の奥、瞬く火花に魅せられて少女は恍惚と見入る

『ドウシタ?、又、夢ダト吐カスノカ?』

低く、抑揚のない声
酷く冷たいのに此の身を焦がす、声

貴方と、居たい

そう、思うだけで私の脈打つ心臓は苦しくなる
苦しくて苦しくて、私の言葉は声にならない

男は、其の目をゆっくりと細める
きつく絡める少女の指を解きほぐし、其の華奢な顎を掴み、上げる

青白く、冷えた指が其の温もりを求めるように少女の唇をなぞる
幼気な少女には不釣り合いな、色濃く引いた其の紅が男の指の腹にうつる

男の冷ややかな薄い唇が、歪む

『死ンデシマウヨ、オ前ハ』
『俺トイタラ死ンデシマウヨ、オ前ハ』

死んでも、いい

一度きりの恋なら
一度きりの愛なら

一度きりの男なら

死んで、いい

少女の思いに、其の唇をなぞる男の青白い指が止まる
微かな驚きが伝わる
微かな戸惑いが伝わる

男の指から
男の沈黙から、少女に伝わる

開け拡げた、格子窓の向こう
客を呼び込む銅鑼の音が、遊郭に鳴り響く
活気ある番頭の声、姉女郎達の派手な笑い

沈黙する
男の沈黙に辺りも沈黙したように、音が消える

銅鑼の音も
番頭の呼び込みも
姉女郎達の笑い声も、吸い込まれたように消える

ふと、男が笑う
其れは春の日差しめいた温もりのある、笑みだった

何故、笑うの?
何故、そんな顔で笑うの?

丸で、捨てられる犬のようだ
嘗ての主人を見上げては、咽喉を鳴らす

此れが、最後
此れで、最後

もう、二度と会う事はないのだろう、と

『嫌、だ』

居ても立っても居られず、少女は男にしがみ付く
其の頬を掴み、其の顔を覗き込む

男の其の顔は此の世の美しさの、枠の外
少女の手の平に触れる、男の肌は氷のように冷たい

貴方が、人でなくても構わない
貴方が、現でなくても構わない

『母親ノヨウニ、オナリ』
『母親ノヨウナ、花魁二オナリ』

誰も彼も、放って置かない
誰も彼も、放って置けない

『花ノ中ノ、華二』

生まれる前から、遊郭にいた
初めて嗅いだ匂いは噎せ返るような、華の香

貴方は知っている

初めて貴方に
貴方の社で出会った時も、言っていた
「母親二瓜二ツノ」

貴方は母親を、知っている

少女の幼い手の中で、男が頷く
そうして木漏れ日の下、其の日差しを仰ぐように目を細める

『アア』
『オ前ノヨウニ社ノ前ヲ通ッテ、習イ事二通ッテイタ』

通り過ぎる、夕霧の横顔は輝いているように美しく
一瞬、眩しさを感じた

目と目が合った瞬間、歓喜に魂が震えた
と、同時に、悲哀に心が震えた

俺の恋は
俺の愛は
成就しないと、知っている

『ソウシテ、社ノ前ヲ通ッテ嫁入リシタヨ』

ああ
この人は母親を見ている

母親も、同じ気持ちだったろう
母親も、同じ気持ちだったろうに

貴方と同じ希望を感じ、貴方と同じ絶望を味わっただろうに
今、私も感じている

ああ
この人は母親だけを見ている

歓喜の涙は、悲哀の涙に変わる

男がゆっくりと、其の両手を広げる
着流しの肩に掛けていた羽織が、飛び立つ鳥の翼のように広がる

『オ前ヲ見テイル』
『オ前ダケヲ、見テイル』

違う
貴方が見ているのは、母親だ

違う
私は、母親とは違う

私は、貴方を見ている
私は、貴方だけを見ている

男は言う

『オ前ヲ見テイルヨ』
『オ前ダケヲ、見テイルヨ』

『朝霧』

其の名を聞いた瞬間、歓喜に魂が震えた
と、同時に、悲哀に心が震えた

ああ
行ってしまう
ああ
この人は行ってしまう

私を残して
私の名を、残して

男の頬に触れていた、手の平が剥がれ落ちる
目の前を男の羽織が風に吹かれて舞い踊るように、落ちる

雨の、湿った音
庇を打つ、しつこい滴の音

ああ、雨

いつも雨
いつも、あの人は雨を連れてくる

あの人?

雨は、苦手
雨は、花の香を閉じ込める

閉じ込められた花の香で、噎せ返る

『…ご隠居、さん』

呼ぶが、返事はない

番頭の呼び込みが
姉女郎達の笑い声が、雨音に雑じって聞こえてくる

何故だろう
酷く、懐かしい気がする

ふと、視線を落とした畳の上
見慣れない羽織が、水溜りのように広がっている

微かに漂う、香

徐に救い上げ、其の香を嗅ぐ
姉女郎達の、花の香ではない

微かな香は、華の香

誰の、香?

分からない
分からないけど、覚えている

此の身を、焦がす
此の芯を、焦がす

華の香に、其の顔を埋める

頬が、紅潮する
魂が、高揚する

一生に一度の

恋の、香
愛の、香

あの人の、香

[おしまい]
作品名:狐の嫁入り 作家名:七星瓢虫