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タバコ

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「浮気してるの?」
 彼女は唐突にそう訊ねた。僕はその言葉の意味をすぐには理解できず、まるで異国の言語を耳にしたような感覚に囚われていた。その場の空気に耐えかねるように、彼女はゆっくりと目を伏せた。
 束の間の沈黙によって、その言葉が表す行為に思い至ったが、僕は身に覚えがなかった。その途端、僕は無性に苛立った。彼女に近づき、右手の平で頬を打った。彼女はおろか、女性に手を上げたのは、それが初めての経験だった。しかし僕は狼狽えることなく、ソファの上に倒れ込んだ彼女にのしかかり、そのまま身勝手に彼女を抱いた。なぜそうしたのかは自分でもわからない。彼女がなぜ抵抗しなかったのかもわからない。
 彼女は自分の罪を受け入れるかのように泣いた。その姿を見ても僕は、謝る気にはなれなかったし、そうしなければいけないとも思わなかった。はだけた衣服を両手で隠すような姿勢で泣き続ける彼女を、冷めた気持ちで見下げていた。僕も中途半端に身に付けた衣服のまま、その場を動けないでいた。
「浮気したの、あなたに仕返しするつもりで。なのに、あなたはまるで、私に興味を失くしたみたいに気付かなかった。他に好きな人がいるなら、そう言ってよ。私は別に、あなたを責めたりしない。ただ、このままじゃイヤなの……」
 僕は何も答えなかった。弁解をする必要などなかった。なぜなら僕は、本当に浮気などしていなかった。疑われるようなことさえしていなかった。仕事以外で女性と話をする機会もない僕が、どうやって浮気をすればいいのか、それを質問したいくらいだった。
 社内に女性社員はいる。しかし、互いに異性として意識することなどない。当然、人の気持ちはわからないので、一方的に思われていることもあるかもしれない。万が一ということもある。可能性がないとは断言できない。しかし、日常的にそのような妄想を広げて生きていけるほど、僕は身の程を知らないわけではない。自分の立ち振る舞いや外見を考慮すれば、そのような可能性がとても低いことは承知している。
 彼女は自分の過ちを正当化するために、僕を利用しようとしているのではないだろうか?
 僕は腹の中に、黒く冷たい感情が渦巻いているのを感じた。そしてそれを打ち消したり、鎮めようという意識はなかった。自分の内側で起こる反応に身を任せ、全てを身体の外側に吐き出してしまおうと決めていた。
 彼女はようやく立ち上がり、そのままリビングを出て自分の部屋へと入っていった。僕はその後を追う気になれず、持て余した感情の処理に困り、部屋の中をうろうろと歩き回ったのち、部屋着に着替えることを思いついた。そうすることで、少しは普段通りの自分を取り戻せると思った。その時になって初めて、この現状を脱したいと望んでいる自分を知った。
 翌朝になっても彼女は部屋を出てこなかった。彼女の気持ちに寄り添う気分にはなれなかったが、その中で自ら命を絶たれるような事態だけは避けたかったので、僕は何度か扉をノックした。それでも反応が無く、僕はさらに強い力で扉を叩いた。何か言葉を発する気にはなれなかった。僕の右手が扉を打つ音だけが、断続的に一定の間隔を空けて響いた。僕の心は次第に、そのリズムに引きつけられていき、彼女の反応などもはや期待していない自分に、思わず笑ってしまった。
 扉の向こうで彼女はどんな気持ちを抱えているのだろうか?
 僕はこちら側で笑っている。しかし、それを悟られぬよう、声を殺して笑っている。たとえ彼女が泣いていようと、僕を憎んでいようと関係ない。僕が罪の意識を感じることはない。受けるべき罰もない。それらは全て、扉の向こう側にいる彼女のためにある。
 僕はその行為にも飽きてしまい、リビングへと戻ってソファの上に寝転んだ。目に映る天井にはシミひとつない。その事実に物足りなさを感じた。小さなシミを見つめながら物思いに耽る、そういう場面を心が欲していた。
 僕はそんな願望を綺麗に折り畳んで、ゴミ箱へと投げ捨てた、キッチンでお湯を沸かし、コーヒーを淹れた。そしてそれをリビングのテーブルまで運び、再びソファに腰をおろした。コーヒーを一口啜ってから、近くに置いてあった煙草を箱から一本取り出し、口に咥えて火を付けた。僕は深く吸い込み、天井に向けて煙を吐き出した。それが妙に清々しくて、僕の気分は良くなった。
 この部屋には灰皿がない。部屋にヤニが付くからと言って、彼女は一方的に室内での喫煙を禁じた。僕はそそくさとキッチンへと移動し、食器棚の中から手頃な小皿を取り出した。それは彼女が気に入っている食器のひとつだった。僕はそこに灰を落とした。
もう我慢する必要などないのだ。
 ついでに冷蔵庫からチョコレートを取り出し、リビングへと戻った。コーヒーには高カカオチョコレートが合うと言う彼女と、コーヒーを飲みながら煙草を吸いたかった僕。これまで二人で生活してきたこの部屋は、煙草の煙が行き場を失ったように漂っている。
 もう我慢をしなくてもいい、という権利を僕は得たのだ。それを許さなければいけない、という罪の意識を彼女は持つべきだ。それは罰ではない。罪の意識を抱えて、彼女自身が取るべきスタンスなのだ。煙草とチョコレートの相性は悪くない。新たな発見に心は弾み、僕は声を上げて笑った。
作品名:タバコ 作家名:福海