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初秋の朝と夜

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初秋の朝と夜

 訪れた人は、京都の夏を耐えがたいと感じる。湿度が高いのがその理由だ。夜も朝も、90度前後とかになる。徒然草は記している「家の作りようは、夏をむねとすべし」。
今、京都では町家のゲストハウスが繁盛している。これらの町家に通風を確保する工夫が随所に見られることから、徒然草の叙述が理解されよう。
冬の寒さもしのぎがたいが、何とか頑張ることができる、しかし、夏の暑さや湿度はいかにも不健康だ。体力を奪ってしまうから、とくに年寄りには要注意だとされてきた。夏を乗り切ろうとする行事がことのほか多いのも、京都ならこそかもしれない。

静かなレストランである。席の周囲がたっぷり取ってあり、他人の視線や会話がほとんど、気にならない。
 鴨川沿いに立つリッツカールトンは、シテイホテルと言うより、会員制ホテルのイメージであった。
「あなたは、どうします」
男が女に尋ねる。
「先生はどうされますか」
すると、係の男性が
「いつものように準備しております」
勢い込んで口をはさんできた。
「なんでしょうか」
「ミディアムレアです」
「わたしもおなじで、お願いします」
男はこの高級ホテルの上得意のようだ。モナコに住んでいると言うが、ホテルチェーンの会員として良い待遇を受けているらしい。女にはまったくの新世界である。男は、どこかのニュース番組のゲストを思い起こさせる。細面ながら眉が太く、視線が透明な、穏やかな表情をしている。そしてその表情から自信があふれ出ている。ほれぼれする。このような自信を手に入れたいと心底から思った。この男の講演を聴いて、のめり込んでいったのだ。参加費用は高かったし東京まで出かけねばならなかったが、これは二度とないチャンスだと自分に言い聞かせた。
「すてきなネックレスですね、きらきら、輝いています」
「ありがとうございます、お気にいりなんです」
「だれかのプレゼントですか」
「上司からですわ、海外事業の市場開発がうまくいって、そのお祝いに」
「彼氏ではなくて」
一瞬、部長の顔が頭をよぎった。探りあてられそうで、不安になる。部長とはもう長いつきあいである。本番なしで、その他は考えられる限りのことをしてきた。本番なしなら、なぜか、職場でもふつうでいられる。
「お祝い事でしょうね、こういうものは」
男が自慢のネックレスにいつ早く気づき、誉めてくれたのはうれしい。少しずつ、無防備になっていく。
ネックレスをプレゼントされ、女は生身を部長に捧げる。企業競争も激しく、出世争いも激しいせいかどうか、部長はSMを好んだ。競争と成長のテンポが早い男性には、SMがセックスに欠かせないと、女は考えた。

「ハイヒールはよく履かれますか」
「ときどきですね」
「身体にいいと言いますね」
「でも、無理があるんですよ、からだには」
「お尻の筋肉を鍛えるのが、すごく良いらしいですよ」
「そうなんですか、知らなかった」
「ロシアの皇帝は、バレリーナを愛人にしたそうです」
「よくわかりません」
「いかないんでしょう」
男が尋ねてくる。
「え、え、なんのことですか」
女ははぐらかす。
「いかないのか、いけないのか、どうかと」
「よくわかりません」
「セックスのことですよ」
「ああ、そういうことですか」
「どうです?」
女はその答えに、少しためらった。
「わかりますか」
言い返してはぐらかした。会話を盛り上げるには、効果的だ。女は実際、いかないから、男の話に興味を抱いたが、心理分析を受けているようで用心した。上司とのSMは、いかないセックスだが、婚約者のような彼氏とも、いくということは少ない。
「なんとなくね」
「そうなんです、あまりいったことがないんです」
この話題を盛り上げようと同調した。
「いかないひとのほうが多いのですよね、いったふりをしているひとがほとんどです」
くわえて女はそう言った。言った、瞬間、しまったと考えた。女性同士の猥談では男性への不満を言い募りあう。いったふりはたしかに、自然に身に付いた、男へのサービスだからだ。
「男のひとはどうなんでしょう」
反問がいちばんだ。
「男はいけるからね、女との機能のちがいですね」
「ふーん、そういうところ、わかります」
「誤解したままでのセックスをいくら繰り返しても、つまらないでしょう」
「相手によるのではありませんか」
「そこが問題ですね、でも男も、演技する女が、相手ではつまらないと考えていますから」「むつかしい問題ですわ」
女はほほえんで、取り繕った。
「あなたはとてもよいキャラクターをお持ちです」
「そうなんですか」
「そうですよ、もったいない」
女はにっこりして、ほほえみを返した。ほめられていると感じて、気分が良くなった。
「あなたは、プライドが高くてね、そして、求めるレベルが高くて、いかないんだと思いますよ」
ほめ言葉としては最高だ。これまで、どちらかと言えば、いかないことに劣等感を抱いていたからだ。

「どうすれば、よいのですか」
男は、つぎの言葉を探しているようだ。
「たばこ、吸われますか」
「ときどきは」
「例えば、たばこを吸いながら、するのです」
「それは、失礼でしょ」
「男を無視するのですよ」
「たばこを吸いながらって、それって娼婦みたい」
「わかるのですか」
「いいえ想像しただけで、なんとなく」
女はやり取りをごまかした。説明すればまずくなると、答えかねて沈黙した。
「たばこは間をつくる、間ができると考える時間が生まれる、頭が働くから」
「でも、ボーとしたい時もありますよね」
男との会話が途切れそうになり、女はすすんでこのテーマを続けた。
「うまくいくのかしら」
「たばこを吸いながらだと、表情を悟られにくいのですね、間ですね」
「営業の方は、たばこが好きですね」
「間ができると、考えられるのです」
「わかったような、わからないような」
「あなたなら、上手にできるでしょう」
「そんなことを言われても、簡単なことではありませんわ」
表情を変えずに、というのは、別の意味でよくあることだ。彼が身体を求めてくるとき、同調しないことが少なくない。その場面では、体と頭が分裂しているのかもしれない。
「ゆっくりと、間を、テンポを楽しむのです」
女は思案する、この男は自分を誘っているにちがいない。いろんな可能性を考えてはいたが、一度目の食事でいきなりベッドインはないとも思った。
「男もね、いくつか種類があって、プライドが高い女性としたいひとがいるのです」
きわどい話が続いているとき、タイミング良く、係の男性がさりげなく近づいてきたら、
「メインのお料理、そろそろお出ししましょうか」
と聞く。
男は肯く。
「肉料理も、少しずつちがうでしょ、セックスもちがって当然だと思いませんか」
「それはそうですね」
「たばこを吸いながら、表情をまったくかえないで、セックスするのです」
「今までと逆ですよね」
「けっこう、むつかしいですよ」
部長との本番なしのあれこれと、恋人との一方的な場面と、それらを重ね合わせて、想像してみる。
「まったく、表情を変えないでですか」
「そうです」
そういう趣味の男がいたのを思い出した。無表情なのが好みで、興奮するのだと言っていた。
作品名:初秋の朝と夜 作家名:広小路博