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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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謝恩会(中編)~手からこぼれ落ちる~

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1.差し出された手



 誰かがピアノの黒鍵を激しく叩いている。

 耳障りな高音が脳の奥を貫いて、湊人は思わず耳を塞ぐ。どれだけ強く耳に押しつけても、無機質な音は鳴りやまない。まるで電子音みたいに。そう、演奏の真っ最中にかかってくる携帯電話の着信音みたいな――

 全身に痛みを感じて、湊人は目を覚ました。枕の横に置いた携帯電話が鳴り響いている。寝返りをうっただけで肩の筋肉が悲鳴を上げる。思うように動かない手を駆使して携帯電話を握る。まぶたが腫れているせいか、画面がよく見えない。
 手探りで画面をタップして耳に寄せる。

「おーい、めずらしく寝坊かー」

 スピーカーから聞こえてきたのは要の声だった。背後からは車のエンジン音や電車の通過音が聞こえてくる。

「おまえでも寝過ごすことあるんだなあ。今ロータリーだけど、おまえんちまで行こうか?」

 そう言われて湊人は我に返った。ふさがったまぶたを必死にこすって、目をこじ開ける。携帯電話の画面の端に「AM8:30」と表示されている。

「……やっば」

 背筋から血の気が引くのを感じながら、これからやるべきことに思考をめぐらせた。身支度に5分、車にエンジンをかけるまで5分、ロータリーまで5分。

 携帯電話から「おーい、湊人ーどうしたー」と要の声が漏れ出している。湊人は肩と耳で携帯電話をはさむと、大あわてで今日着る服を探し始めた。

「いい。15分で行く」
「おいおい、無茶な運転するなよ。9時に西守医院だろ? ちょっと遅れるって送っとくよ」
「自分で送る。すぐ行くから」

 要が何か言いかけたが、聞き終わらないうちに着信を切った。前日から着たままだった服を洗濯機に放り込んで、移動しながら服を着る。

 顔を洗ってからバックパックの中身をチェックする。楽譜、財布、携帯電話、家の鍵。電気もガスも昨夜遅くに帰ってから一度もつけていない。窓も閉めっぱなしだ。

 1kの狭い室内を見渡し、湊人は「よし」とつぶやいた。しっかりと施錠をし、携帯電話の操作をしながら白いライトバンに向かって駆け下りていく。

 昨日の曇天の空が嘘のように、三月の空は晴れ渡っていた。



 運転席に座った湊人とガラス越しに目が合うなり、要は口をあんぐりと開けた。予想はしていたが間抜けな顔だ、と考えていると、要は助手席ではなく運転席のドアを全開にした。

「おまえ……なにその顔」

 湊人はふいと顔をそらす。昨夜ろくに手当をしなかったせいか、元の輪郭がわからないくらい顔が赤く腫れあがっている。口元には血の出た跡があり、頬骨のあたりには青あざもある。前髪で隠しているが、額にはかさぶたがあり、両まぶたも腫れて垂れ下がったままだ。

「いいから早く乗れよ」
「そんな目の塞がったやつに運転なんてさせられるか」

 要は後部座席にギターケースを放りこむと、湊人の腕を強く引いた。その途端、電撃のような痛みが全身に走り、湊人はうめき声をあげた。

「その怪我……顔だけじゃないんだな? 訳はあとで聞くから、とにかく降りろって」

 落ち着いた彼の口調が、ほんの少しだけ痛みを和らげる。てこでも動きそうにない要の態度に負けて、湊人はしぶしぶ運転席から降りた。わきのあたりを手で押さえながら、湊人は助手席に乗りこむ。うしろから来た軽自動車にクラクションを鳴らされて、あわててドアを閉めた。



「えーっと西守医院ね……悠里ちゃんには連絡した?」

 ロータリー出口の信号待ちでナビを操作しながら、要がそうつぶやく。ギターを弾いてばかりの武骨な手を見つめながら、湊人は答える。

「した」
「返事はなんて?」
「勝手口の方で待ってるって」
「それ、病院の?」
「たぶん」
「了解。で、その怪我はどうした?」

 ハンドルを切りながら要は何気なくそう言った。湊人は素知らぬふりをして口を閉ざす。
 アクセルペダルを踏んだまま、要はわざとらしくため息をついた。

「まあいいや。行先は病院だし、ついでに診てもらえよ」
「別にいい」
「いいわけないだろ」
「いいってば。ほっといてくれよ」

 要はまたため息をついた。やれやれと言わんばかりに眉を下げて、湊人の表情を盗み見る。

「あのさあ、そんな手して、ひびでも入ってたらどうすんの? 謝恩会どころじゃないだろ?」

 六甲山のふもとに広がる曲がりくねった坂道に苦戦しながらそう言うと、湊人はぐっと息を飲んだ。けれど口は堅く閉じたままだった。

 移動する間ずっと、湊人はこぶしを見つめていた。体を丸ごと飲み込んでしまいそうな憎悪の念が背中のうしろで渦巻いていた。口を開けば要に八つ当たりをしてしまいそうだった。

 彼の思いやりに何も言えず、何も応えられず、ただ黙っているしかなかった。



 六甲山の西、摩耶山の麓にある病院の前で要はライトバンを停車させた。このあたりは町全体がかなり急な坂になっている。眼前には青々とした山が迫り、ふりむけば街の向こうに神戸港が広がっている。繁華街にある高層マンションははるかに遠く、その隙間を埋めるように住宅が密集している。空と海がつながるこの地に立っていると、昨夜まきこまれた諍いもほんのちっぽけなことだと思えてしまう。

「えっと……駐車場はこっちか。湊人、悠里ちゃん探してきてよ」

 下車した湊人を残し、ライトバンはゆっくりと発車した。すぐそばに「西守医院」の立て看板はあるが、湊人の背より高い垣根が果てしなく続いて、どこが勝手口なのか見当もつかない。

 「本日の診察は終了しました」の札を見つめたまま突っ立っていると、要が戻ってきた。

「悠里ちゃん、いた?」

 湊人が首をふると、要は首をのばしてぐるりとあたりを見渡した。そういえば要が住んでいた家もこんな風に垣根が続く、古い日本家屋だったと思い出す。

 要は迷いのない足取りで歩き始める。黙ってついていくと、そこには垣根の切れ目があった。にんまりと笑う要を見ながら、古い家にはそれなりの法則があるのだろうかと考える。

 古い門扉のそばに白黒のインターフォンがついている。要が押すとすぐに、垣根のむこうからあわただしい足音が聞こえた。複数の足音と話し声が徐々に近づいてくる。

「おっまたせー。ごめんねえ、久しぶりに泊まったから、メガネどこ置いたかわからんようなってもうて……」
「おまえのうっかりは永久保存版やな」

 そう言いながら姿を見せたのは、こげ茶色の髪をポニーテールに結わえた悠里と、分厚いレンズのメガネをかけた彼女の兄、陽人だった。

「あれ、高村さんも一緒ですか?」
「陽人くんこそ、こんなとこで会えるとは思わなかったなあ」
「ここ、姉貴の嫁ぎ先なんです。俺らちっちゃい頃からお世話になってて……」

 年長者が雑談するあいだ、悠里は薄茶色の瞳でじっと湊人を見つめたまま何も言葉を発さなかった。無言の圧力を感じて湊人も口を開けない。

 陽人はふっと息を吐くと、ポンと妹の頭を叩いた。それでようやく悠里が我に返ったようにメガネの奥にある目を見開いた。

「坂井くん……その怪我どないしたん?」

 悠里は言葉を選ぶようにゆっくりと発声した。湊人はわずかに視線をそらして答える。

「……別に何も」