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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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謝恩会(中編)~手からこぼれ落ちる~

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序.帰りたくない



 肌寒い春の夜、湊人はひとり古びたアパートを見上げていた。
 錆びた外階段に手をかけては足踏みをし、乗ってきた白いライトバンに戻りたい衝動にかられる。

 ロングTシャツのすきまから冷たい風が吹き込んでくる。築50年を越えるアパートの花壇には、つぼみを閉じたチューリップが並んでいる。
 母とふたり、手入れをしたこともあったこの花壇――

 湊人は口元をキュッと結ぶと、階段を上り始めた。スニーカーをはいているのに、母が踏み鳴らしていたハイヒールの音まで、どこからか聞こえてくる気がする。

 「坂井」の表札の前に立って、深呼吸をする。壊れたインターフォンには手をつけず、玄関扉をじっと見つめる。中指の骨を立てて扉を四度叩く。それが母と幼いころに決めた合図だ。

 吸い込んだ息を吐く間もなく、鍵が回転した。耳慣れた音に胸の軋みを感じていると、ゆっくりと古い扉が開いた。懐かしい古屋のにおいがあたりいっぱいにたちこめて、母が姿を現した。

「おかえり。さ、入って」

 弧を描いた瞳で母はそう言った。髪の色は年齢に不釣り合いなほど明るく、同年代の友人の母親よりずいぶん老けて見える。
 思わず「おじゃまします」と言いそうになって、湊人は口をつぐんだ。三和土には母の新しい靴があるが、壁にかけられたカレンダーは湊人が家を出た二年前のままだ。

「晩御飯はまだ? カレーでよかったらあるんだけど……」

 母は鍋のふたを開けた。一人暮らしには多すぎる鍋いっぱいのカレーが、湊人を歓迎してくれる。

「いや、まだだけど……今日は荷物を片づけたら帰るからさ」
「そうなの? ゆっくりしていけばいいのに」

 母の手はもうしゃもじを握っている。足はもう一歩踏み込むのもためらっているのに、懐かしい母のカレーの香りが湊人の頬をゆるませる。

「……じゃあ、いただきます」

 そうつぶやくと、母は満面の笑みを見せた。いそいそと皿を選び、炊き立ての白米を盛っていく。

「デザートにおいしいイチゴがあるのよ。湊人はイチゴが好きでしょう?」

 そう言いながらテーブルの上に次々と皿を並べる。一緒に暮らしていた頃と変わらないビニールクロスの上に、サラダやからあげが並べられていく。
 戸惑いを感じながらも、湊人は椅子に腰かけた。母が食事のしたくをする、見慣れたこの視界が眼前にせまって、決意がくじけそうになる。

 出されるままにスプーンを手にして、カレーをほおばった。煮崩れたじゃがいもにまで懐かしさを感じてやっと、母の前に食事がないことに気づいた。

「母さんは食べないの?」
「あなたが帰ってからゆっくり食べるわ」
「なんで? 一緒に食べようよ。オレがよそうからさ」

 そう言って湊人が立ち上がると、母は「じゃあ」と言ってほほ笑んだ。瞳にはうっすらと涙の膜がはっている。湊人は思わず目をそらす。

 食事をしながら、聞かれるままに日常のことを語った。高校はさぼってばかりでろくに話すことがなかったが、ジャズのことになると話は尽きなかった。プロピアニストの父を愛して一緒になった人なのだ、ジャズに詳しいのも当然か――と今になって血のつながらない母の知らない側面にふれた気がした。

「この家に戻ってくるつもりはないの……?」

 話の切れ目でぽつりと母がつぶやいた。湊人はきれいになった皿の前にスプーンを置いて、姿勢を正した。

「そのことなんだけど……」

 そう言いかけたとき、玄関扉の鍵が回転する音が聞こえた。母と付き合っている男の誰かなのか、と身構えていると、男の野太い声が聞こえた。のっそりと巨体を見せたのは、二年前に湊人を殴ったあの男だった。

「母さん……なんであいつが家の鍵を……」

 湊人が体をこわばらせながら小声でつぶやくと、母は震える声で言った。

「どうしても返してくれなくて……」

 スプーンを握った母の細い手がカタカタと震えている。湊人は生唾を飲み込み、怯むな、と自分に言い聞かせた。

「……なんだ。息子が来てるのか」

 二年の間にすっかり老けこんだその男は、威嚇するように低い声をうならせた。

「あんた……うちにはもう来ないでって言ったでしょ……」
「貸して金、耳そろえて返してくれりゃあこんなボロ家に来るかよ」
「もう全部返したじゃない。鍵も返してよ」

 母は必至で応戦するが、男は見下すように視線を落としながら母につめよっていく。

「利息分がまだだろ。それまでこれは返せねえなあ」

 にやにやと笑いながら、母の頭の上で鍵をふる。母は顎を震わせてしばらくそれを見つめていたが、突如男の腕につかみかかった。

「返してよっ!」

 手をのばして鍵を奪おうとする母を、男はいとも簡単に跳ね飛ばした。母の細い体はテーブルにあたってフローリングに崩れ落ちた。男の太い足が母の体を踏みつけようとする。
 そこで湊人の理性の糸が切れてしまった。

「てめえ……ふざけんな!」

 そう叫んでうしろから飛びかかる。男の服を引きつかんで背から引き倒し、母から男の足を遠ざける。すぐさま男が鬼の形相でふりむいて湊人の胸倉をつかもうとしたが、それより先に湊人が男の腹を殴った。
 男はうめき声をあげながら膝をつく。

「……ちょっとでかくなったからって調子こいてんじゃねえぞ!」

 腕をつかまれた湊人は、そのままかわすこともできず左頬を殴られてしまった。脳に衝撃が走り、視点が合わなくなる。けれど湊人はかまわず男の顔をめがけて空いている腕を振りかぶった。
 こぶしに鈍い痛みが走る――その瞬間、湊人はわずかに理性を取り戻した。指を痛めてしまったら、二日後の謝恩会に出られなくなる――

 そのためらいに気づいた男が、再び湊人のこめかみを殴る。胸倉を引きつかまれた湊人は、なすすべなく殴られ続けた。

 容赦なく殴りつける男の背中に、母がしがみついた。「もうやめてよ」と泣き叫んでいた。

 朦朧とする意識の中に、二年前の母が見えた。あの時も、守れずに殴られることしかできなかった。激しい憎悪の渦の中に、要や初音の顔が見えた。彼らのおかげでジャズの世界に飛びこみ、もうこんな生活に戻ることはないはずだった。

 けれど母は渦中の只中にいた。搾取され殴られ、生きる意味を見失う日々――
 抵抗しなくなった湊人に飽きたのか、男は湊人の体を離した。すぐさま母が湊人の体を抱き上げる。母の顔に殴られた赤さが浮かび上がっている。頬に涙がつたっている。

 湊人は顔の筋肉を引きつらせながら、母に大丈夫だと笑いかけようとした。

「ちっ……また来るからな。金そろえておけよ」

 男が息を切らしながら捨て台詞を吐いて、床に落ちた鍵を拾おうとした。湊人はとっさに体を跳ね起こし、男の背中にとびついた。

「どけっ! このクソガキが!」

 そう叫んで湊人の服をつかみ上げたが、今度はその暴力的な力に逆らった。必死になって目を見開き、男を睨みつける・

「……鍵、返せよ」
「なんだぁてめえ……」

 男は再び湊人を殴ろうとしたが、湊人は渾身の力をこめて男の脛を蹴り飛ばした。
醜い巨体はいとも簡単にひっくり返り、湊人は間髪入れずに馬乗りになって殴りつけた。