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富士樹海奇譚 見えざる敵 下乃巻

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九 追い詰められる


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Gyuto Monks Tantric Choir - Chakrasamvara

いつしか夕暮れとなり、樹々の間から血の滲んだような空が見え始めた。
熊一とさをりは下り坂に差し掛かり足を早めるが、やがて片方の藪が開け断崖絶壁が広がる。落ちれば、ひとりでは登ってこれまい。その崖の脇の道をそろりそろりと降りてゆく。
そのまえに血に塗れた安田元康が立ちはだかる。
熊一が声をかける。「安田殿、無事だったか!」
安田が声を上げる。「無事なわけがなかろう、見よ、満身創痍よ。」
「欣三は武士として天晴な最後だった。」視線を下げる。
熊一も一度、視線を下げて礼を尽くすと、安田を急かす。
「ヤツはすぐそこまで来ている!急ごう!」
だが安田は刀を抜く。
「あぁ、だがこのおなごはこの森から出してはならぬ。」
熊一がさをりを庇うべく中に入る。
「あのケモノは岡部が行なった身の毛もよだつ人体実験のなれの果て!」
熊一は安田の言葉が理解できなかった。
「最強の忍びをいや、最強の兵士を人の手で作らんと欲した岡部は何代にも渡って、ひとと動物の交配の実験を繰り返したのだ。あのケモノを見よ、モモンガの飛膜と熊の鉤爪を持っている、さらにやけど虫の内臓を黒い腹の中に持っているらしい。なんとも神をも恐れぬ非道の数々を。だがヤツの脚を見よ。ヤツは獣脚ではない。ひとの膝を持っている。そしてケモノの顔の中に潜むひとのひととしての人格を、叡智を。だからヤツは道具すら器用に使える。まるで女、おまえが教え込んだように。手際よく人の生皮を剥いておったわ!」
熊一は唖然としてさをりを振り返る。
「あれは・・ひとなのか?!」
熊一が恐る恐る言葉にする。
「だから罠を見破り、ひとを攪乱し騙すことができるのか」
さをりは笑い出した。
「アレがひとであるはずがないでしょ!」
安田が刃を向けなおす。
「果たしてそうか?!おまえこそはヤツの姉なのではないのか?!純正種の人間でなければ、この森を離れたら最後、郷を血に染め、やがては国を亡ぼすに違いない。これこそは御国の一大事。ならばここで成敗すべきが侍の務め!ここで貴様ら、姉弟を斬る!」
すると、さをりは態度を変えて不敵な笑いを浮かべた。
「おまえらの頭には理解できないかもしれないがな。」
さをりは両手を延ばすと、二人の男に向けた。何の術を使うかはわからないが、明らかに敵対する姿勢を明らかにしたうえは。熊一も刀を抜いた。
「この時代のおまえたちにはまだまだ理解も分別もつかぬことだろうがな。」
女のひと言で、雷鳴が轟き、二人の男は雷に打たれたように刀を落とし、転倒した。
さをりは冷たい目付きで語りだす。
「われらは天帝の遣いでこの“不死“の麓に遣わされた天女。帝の思い過ちで失った不老不死の薬が元で争いの絶えぬ世を憂いた岡部殿には、いつなんどきも薬について聞かれたが、天帝の御意志として伝えることはせなんだ。だがお主ら武家のものの残虐非道な行いを聴くにつけ、岡部殿の望みの手がかり、足がかりを与えてきた迄のこと。あのケダモノこそは傲慢でかつ高慢なおまえたち人間の生みだした自業自得の産物に他ならぬわ!
安田に視線を落として更に言葉を続ける。
「お主が申すように熊の力とモモンガの飛翔能力、鋼のような体毛は毛先が毒を備えているばかりか、光を反射することで敵から身を隠す能力を備えている・・岡部殿はある意味生態的な掛け合わせに成功したが、生物の独自の進化については無頓着だったようだ。
最近では自らの身体を変化させる術をも身に着けたらしい。おまけに飼い主に対する従順さも忘れ、さらに凶暴に進化した。もはやあのケダモノを止める手立てなどありはしない。」
熊一も安田にしてもあまりに突拍子な、思考の次元を超えた話に腰を抜かした。
安田は自らの見立て違いと天帝の手先たる女の立場に対する無礼を働いたことを恥じ入った。なにを出まかせを、と切り返そうにも、先程の雷撃は説得力を持たせるには十分すぎた。
「では、今の雷撃であのケダモノを倒せませぬか_。」
熊一はさをりに話しかけるが、一笑に付した。
「あのケダモノはお前たちの探しあぐねた爆薬を食しておったわ。一旦、火花が散れば最後、天をも焦がす大爆発を引き起こすことだろう。」
「もっともあのケダモノを一気に氷漬け出来れば動きを封じることができるかもしれんがな。」
そう言い残すや否や、さをりの頭部が地面に転がった。
血飛沫を浴びながら熊一も安田も驚くほかなかった。
間髪入れず上空から降りてきたケモノが二人に襲いかかってきた。
ケモノは鋭い鉤爪の付いた腕を伸ばして安田に襲いかかる。
熊一は手裏剣を投げつけるが鎧のような毒針に弾かれ、更に毒針を放たれる!
身を翻し避けるが、弱い地盤が崩れ体勢を崩す。
機を見て安田は刀を拾い上げると、武人としての本領を発揮しケモノの鉤爪攻撃を交わしてゆくがケモノの猛攻に後ずさりを余儀なくされる。熊一は投げ縄を用意し、ケモノの頭にかけるのに成功する。縄を引くと、安田は好機と、体勢を崩したケモノの右腕を渾身の力で斬り落とす。身悶えながら狂ったように暴れるケモノは安田の顔面に唾を吐きかける!
焼けるような痛みを顔面に感じて安田は、刀を振り回し悶える。
そして足元を踏み外し、崖の下へと転落してゆく。
熊一は安田を助けようと腕を伸ばすが、及ばずに崖の下を見る。
無念なり。
残るは俺だけだ。
殺すか殺されるか。
ふたつにひとつ。

振り返れば右腕を失ったケモノがこちらに飛び掛かってくる!

ならば!

ケモノの首にかかった縄を握りしめて、自ら崖から飛んだ!
思わぬ熊一の行動にケモノも首を絞められながら落ちてゆく。
滑空体制もとれないまま、樹々の枝に、幹に激突しながら落ちてゆく。
最初の衝撃はどちらであったか_。
急斜面に落ちたか両者は低い方に向かって勢いよく転がり始めた。
勢いの付いたまま谷底に落ちてゆく。
そして火山灰に覆われた溶岩台地の裂け目へと落ちていった。

熊一が気がつくと暗い冷え冷えとした穴の中だった。
辛うじて届く外光が穴の内部を少しだけ見せていた。
そんなに深くはないが、今の自分の身体では這い上がることもできまい。
次に、体中の皮膚が怖気を感じているのか。冷たい。凍えるほどに冷たい。
だからか。これほどまでに身体を痛めつけられても、それほどの痛みを感じてはいない。
だが、身体を持ち上げようとした瞬間、体内に稲妻が走るような激痛を感じた。
身を返すと巨大な氷の柱が何本も立っていた。
ここは万年氷を擁す氷穴だ_。
右手を見ると力を入れ過ぎて硬直したまま、縄を握り続けていた。
恐る恐る引いてみると、重さを感じた。
ヤツは近くにいる!
恐怖を感じ、激痛を感じながらも立ち上がり・・いや厳密には右足が立たず引きづりながら、逃げられる体制を取ってから思い切り縄を引く。
悍ましい苦し紛れの嗚咽が反響し木霊する。
ケモノは粉砕された氷の上に横になっていた。ぶつかった衝撃で落ちたのであろう巨大なツララが強固な腹筋を貫いていた。破れた血管からは、心臓の鼓動に合わせて黄色い血液を噴き出していた。