その日までは
母の場合
春らしい装いに身を包み、潤也の母、万里子はその日、都心のカフェでママ友たちとお茶を楽しんでいた。
集まったメンバーとは、潤也が幼稚園の頃からの付き合いだから、かれこれ三十年にもなる。今では年に一度くらいになってしまったが、今日も声を掛け合って五人のメンバーは集まっていた。
そして、今回一番の話題はもちろん潤也の結婚だ。メンバーの子どもたちの中で、潤也は最後の独身だったからだ。
そのため、ママ友たちもそれぞれ自分の息子の時を思い出したのだろう、とても感慨深げに万里子に声をかけ、そして、話は大いに盛り上がった。
「とうとう潤君も結婚か～」
「本当によかったわね」
「どんなお嫁さんなの？」
「早く孫の顔が見たいでしょう？」
そこからは各自の近況に話が移り、愚痴を交えながらもそれぞれの幸せな家庭の様子が語られた。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
みんなと別れ家へと帰る道すがら、万里子はひとり喫茶店に入った。せっかく、めかし込んで出てきたのだから、もう少し外の空気に触れていたかった。でも、本当はそれだけではない。家に帰れば、またいつもの主婦業と祖母業が待っているからだ。
三年前、一気に家族が増え、にわかに忙しくなった。
実の娘との同居は、誰からも羨ましがられた。お嫁さんじゃないから気を遣わなくて済むのだからと。
ところが、そうは甘くなかった。
恵子は育児を言い訳にして、家のことはほとんど万里子一人が背負わされた。加えて孫たちの相手もしなければならない。いくら孫とは言え、我が子でないから叱るにも神経を使う。たまに遊びに来る孫なら可愛がるだけでいいが、毎日一緒に暮らすとなるとそうはいかない。
その上、婿にはさらに気を使わなければならない。こんなことなら、二時間かけて通った方がましだった、と思ってももう遅い。
今日は、特別休暇をもらってやっと解放されたという感じがする。でも、家へ帰ればどれほどの家事が待っていることだろう。恵子のことだ、万里子を当てにしてたいしたことなどしていないのはわかっていた。
万里子は心の中でため息をついた。
親元にいることをいいことに、好き勝手の娘を叱れない自分が歯がゆかった。でも、だからと言って婿や孫たちの手前、母娘で言い争う無様な姿は見せられない。
思えば、自分は専業主婦だから、娘とは仲良し親子でいたいから、そんな気持ちがいけなかったのだ。ちゃんと学校を出て、就職をして、バリバリ働いている娘を見てそれでいいと思ってしまった。それが時代の流れだと思っていた。
しかし、それは違っていた。どんな便利な世の中になろうとも家事は身につけさせるべきだったし、相手を思いやる大切さも教えるべきだった。勉強さえしていれば、仕事さえしていればそれでいいというように育てたのは、誰でもない自分なのだ。今頃気づいても、教育し直すには娘は大人になり過ぎていた。
コーヒーを飲みながら、万里子の足は一向に立ち上がろうとはしなかった。夫の帰宅拒否症というのは聞いたことがあるが、それと似たようなものだろうか？
でも、家は妻の牙城だ、帰りたくない妻などいるはずもない。そうなったら、もう行く場所がないではないか。
夫とふたりの時はこんなことはなかった。
そうだ、今からでも遅くはない、あの頃に戻ろう。家賃などいらない、安らかな暮らしを取り戻すのだ。でも、いったいどんな口実を持ち出せば円満に元の暮らしに戻れるだろうか？