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その日までは

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父の場合

 
 両家顔合わせを済ませた翌日、潤也の父、真田幸治はいつものように家を出た。 
 オフィス街にある会社に向かうため、混んだ電車に積み込まれ、人の波に飲まれながら駅の階段を下り、人の間を縫って会社まで歩いていく。慣れた道のりとはいえ、いつまでこんなことが続くのだろうかと、つくづく嫌になることがある。

 それもこれも、家族のためとがんばってきた。だが八年前に娘が嫁ぎ、今度息子が結婚して独立すれば、経済的には妻と二人の暮らしが成り立てばいいのだ。その上、幸治は今年六十歳、少し前なら定年の年だ。今は五年延びているが、早期退職という制度があり、退職金が上乗せされる。幸治は密かに、その制度を利用することを考えていた。
 きっかけは、もちろん息子の結婚だ。
 定年後の無職ではなく、現役のまま式に臨む。そして、息子の晴れ姿を見届けたら、もうお役御免だといつからか思うようになっていた。勤続三十八年、もう会社勤めに何の未練もない。老兵は消え去り、若手に道を譲ることこそ、長年世話になった会社への最後の奉公とも言える気がした。
 しかしその後、仕事を辞めて何をするか? まだ六十の身で老後というには早すぎるし、年金を受け取るまでの間退職金を食いつぶすというわけにもいかない。

 そして、真っ先に浮かんだ第二の人生は、店を持つことだった。どうせなら長い間勤めてきた会社員とは、全く違う仕事に挑戦してみたい。会社の一部ではなく、一国一城の主として、体が動く限りいつまでも続けられる仕事がしたい。そこで思いついたのが、街の片隅で誰もが憩えるコーヒー店をやってみることだった。
 得意先から会社への帰り道、幸治には疲れた心をいつも癒してくれる一軒のコーヒー店があった。そこのマスターと他愛のない話をしながら、美味しいコーヒーを口に含むと、不思議と疲れが消えていく。あの香しい香りも心を癒してくれる。
 常連客となった幸治に、マスターが冗談とも本気ともつかぬ、いつか言った言葉が心に残っていた。
「コーヒー屋をやるならいつでも応援しますよ」
 まったくの畑違いの世界、自分には縁のない話だとその時は聞き流した。しかし、昨日の顔合わせを持って、自分も再出発したいという気持ちが強まると、一気にその話が計画へと形を変えた。

 それにはまず、何から手を付ければいいのだろうか? もちろん、妻万里子の理解と協力が不可欠だ。まずは、早期退職の理解を得ることから始めなければならない。そして、店をやる、そう言ったら万里子はどんなに驚くだろう……とても、すんなりとはいかないことは明らかだ。
 いくら退職金が上乗せされるからと言っても、店がうまくいかなければ、年金が下りる五年先までは生活の保障がなくなる。その上、万里子は、これまでずっと専業主婦として家を守ってきた。外の世界を知らない。いきなり店を手伝えと言われても、簡単に引き受けることなどできないだろう。でも、幸治としては、夫婦仲良く、店を切り盛りしていくということが何よりも大切なことだった。
 そして、万里子に言い出しにくいのにはもう一つ、理由があった。それは娘一家だ。娘の恵子は、家事も育児も万里子に頼りっぱなしだった。万里子が店に出るとなれば、当然家事においての恵子の協力も必要になってくる。


 三年前の春、家の老朽化と地震対策から、家の改築を考えた。すると、その話を耳にした恵子が、同居話を持ち掛けてきた。
 当時恵子一家は、隣の県の賃貸マンションに住んでいて、ことあるごとに万里子を呼びつけていた。その度に往復二時間の道のりを万里子は何度も通っていた。一緒に住めばそんなこともなくなり、自分たちが払う家賃が建築費用の足しになる、と恵子はうまいことを言ってきた。
 その言葉に乗って、孫たちとも暮らせてにぎやかになると、いいことばかりを考えて同居に踏み切った。長男である潤也のことが頭をかすめたが、当時は結婚するかどうかも分からなかったし、たとえ結婚しても同居を望む嫁など今どきはいないだろう、そう考えた。
 しかし、この決断は期待を大きく裏切る結果となった。いざ同居が始まると娘という甘えからか、まるで娘時代に返ったように恵子はさらに万里子をいいように使い始めた。結局は万里子の負担はますます増えることになった。そして、今回のように自分が何かしたい時に、とんだ足かせとなるとは。


 自分はこの家の家長であり、自分たち夫婦の人生を決めるのに、嫁に行った娘に遠慮する必要などないはずだ。だとしても、肝心の妻は何と言うだろう? 外で働いたことなどない妻には、店を手伝うことなどできるだろうか? いや、その前に店を持つことを承諾するだろうか? 退職金をつぎ込むことになるのだから、人生における大きな分岐点になるだろう。
 問題は山積みだった。どこから手をつけたらいいかわからない。とりあえず、仕事のかたわら、コーヒー店について自分なりによく調べることにした。
 あちこちの店を訪ねては、店主と顔見知りになり、話を聞く日々が続いた。もちろん、行きつけのマスターには真っ先に相談もした。店を出せるだけの自信が持てたら、妻に話そう。そして娘にはこれまでの分を返してもらうつもりで協力を仰ごう。もちろん、早期退職の件は会社の連中にはまだ内緒だ。
作品名:その日までは 作家名:鏡湖