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笑い三年、泣き八年、太鼓たたいて十三年

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笑い三年、泣き八年


「おうい、こら平助やい」
 暮六つの鐘が鳴り止んでまもなくのこと。
 幇間(ほうかん)の溜まりとなっている二階屋の六畳敷に丸くなっていた平助は、聞き慣れた伊左衛門のどら声に心地よい熟寝から引きもどされた。眠い目をこすりながら、ふわっと生あくびを噛み殺す。
「やれやれ、毎度まいどあの塩っ辛い声でたたき起こされたんじゃ、かなわないねえ。寿命が縮んじゃいますよホント。たまにあ色っぽい姐さんの声で目を覚ましてえもんだ。ぬしさんおつとめの時間ですわえ、どうぞ起きてくりゃしゃんせ、とかなんとか耳元で囁かれてね」
 ぶつくさ言いながら、ささくれ立った古畳の上でのろのろ半身を起こしていると、ふたたび階下から伊左衛門のがらがら声が飛んできた。
「ぼやぼやしてねえで、さっさとお座敷へ上がれってんだ、このとうへんぼく。おめえのヘソ踊りがご所望だとよ。いいか、ここはひとつ上手く踊ってみせて、たっぷりご祝儀はずんでもらうんだ。おいこら聞いてんのか」
「はいはい、聞いておりやすよ。丁稚を使うんじゃあるめえし、そんなにぽんぽん言うもんじゃござんせん」
 役者のように整った顔をつるりとなで、無精髭がのびていないか確かめてから、平助はゆっくりと立ち上がった。まるで日暮里の布袋さまみたいに、でんと腹が突き出している。歳は、壮年といったところだが、いまだ風貌に幼さが残り、それがなんとも言えぬ人懐っこい雰囲気をつくり出している。彼は、着物の襟をしゅっとしごいてから、その形の良い太鼓腹をぽんと叩いてみせた。
「あっしのヘソ踊りがご所望たあ、そいつはまたアリガタ山のトンビガラスときたもんだ。まあ太鼓持ちもお女郎さんも、腹で稼ぐことにあ変わりござんせんね。もっともお女郎なんてえのは、腹は腹でもあっしらとは使う部分がまったく異なるんでしょうけれど……」
 磨き込まれて黒光りする階段の上を、扁平足をぺたぺた鳴らしながら下ってゆくと、階段下の暗がりから伊左衛門がにょきっと首だけのぞかせた。僧形につるりと剃りあげているが、長年のやくざ稼業が染み込んだものか、それとも生まれつきか、凄みのあるなんとも近寄りがたい顔をしている。その幇間の元締めが、眉をひそめて怪訝な表情を見せた。
「……なんでもお大尽さまは、成田屋七兵衛の大旦那ってえ話だ」
「え、成田屋さんて、日本橋堀留の? あの御用箱師の? へえ、今日は献残屋のふるまい酒でもあったんですかね」
「いんや、成田屋さんお一人で来なすったようだ」
「そりゃ珍しい」
 平助は、おおげさに驚いてみせてから、商売道具である一枚皮の団扇太鼓を、ででん、と打った。
「あの倹約家の成田屋さんがねえ、とうとう通の道にお迷いなすったか。歳々年々人同じからず、年を取ってから覚える道楽てえのは、身を滅ぼすっ、なんて言いますけどね」
 とたんに、伊左衛門のごつい拳が飛んできて、ぽかりと彼のおつむを打った。
「痛てっ」
「よけいなこと言ってんじゃねえ。無駄口叩いてるひまがあったら、さっさとおあしを稼いできやがれってんだ、このとうへんぼく」
 ぴしゃりと決めつけられ、平助は着物のたもとで顔を覆い、肉付きのよい猪首をすくめて、うへえと唸った。

 眠らない街、吉原――。
 昼夜の別なく営業することを幕府から公認され、遊女三千人を抱えるというこの大遊郭は、明暦におきた振袖火事のおり、日本橋から伝法院の北、のどかな田園風景のひろがる浅草日本堤へと移転した。
 それが新吉原である。
 切り絵図などを見てもわかるように、田んぼのなかに地勢に逆らったかたちで四角い敷地が、まるで陸の孤島のようにぽつんと存在している。お歯黒ドブと呼ばれる淀んだ堀と、忍び返しをつけた厳重な黒板塀で囲まれた、ある種牢獄のようなものものしい空間だ。庶民が暮らす日常とはあきらかに趣を異にする、なんとも胡散臭い場所である。入り口は、黒塗りの大門が、ただ一カ所だけ。この大門口から内は、遊女として売られてきた女たちにとっては苦界、遊蕩に来た男たちにとっては、まさに極楽世界というわけである……。
 幇間の溜まりを飛び出した平助は、ひやかしの酔客たちがそぞろ歩く中通りを、人をかき分けかき分け足早に進んだ。待合い辻を突っ切って、茶屋の裏手にまわり込むと、一軒の傾城屋が見えてくる。紺股引に、妓楼の印の入ったはっぴを着た「ぎう」と呼ばれる下男が、玄関先でほうきを使っていた。平助は、例の人懐っこい笑顔で、その下男に声をかけた。
「ちょいと、ごめんなさいよ。今夜ここでお座敷を張っている成田屋の大旦那さまに呼ばれて来たんだけど、お里さんは中にいるのかい?」
「いるよ」
 とぶっきらぼうに答えてから、店の用心棒もかねるその大柄な下男は、蔑むような視線を平助へ向けた。忌々しげに、ちっと舌打ちする。
「あんたら男芸者はいいよなあ。客と一緒に酒飲んで騒いでりゃあ、それでおまんまが食えるんだ。姐さんがたみてえに体を売るわけじゃなし、俺たちみてえに朝から晩まで雑用に追われるわけじゃなし……、そんなに楽して生きてたら、そのうち罰が当たって、ころっとおっ死ぬかもな」
 すると平助は、こういうとき見せる泣き笑いの表情で、右手を左右に振ってみせた。
「バカあ言っちゃあいけませんよ。あっしら太鼓持ちってえのはね、姐さんがたみてえに色気でもってお客に媚びることができないぶん、身につけた芸と喋りだけで座を保たせなきゃならない、見た目よりも、ずっと辛い稼業なんだ。いただけるおあしだって、あんた、ようようスズメの涙ほどだってえのに」
 勢いよく太鼓をででん、と鳴らす。
「死ぬほどに、つとめて太鼓一分とり……、ってね」
 下男は、納得いかないといったふうに、ふんとそっぽを向いた。そこに暖簾を手でかき分け、お里が色っぽい顔をのぞかせる。
「あら、平助さん。お待ちしてましたよ」
 年増だが、切れ長の目元が涼しげで、華やかな芸妓とはまた別の、浮き世離れした魅力を感じさせる女だ。彼女たちは「花車」と呼ばれる吉原の遣り手で、客と遊女のあいだを取り持って、いろいろと世話を焼くことを仕事にしている。こういう遣り手のほとんどが、もとはこの吉原の遊女で、そのため花車には歳のわりに婀っぽい女が多かった。
「こりゃどうも姐さん。こんち、あっしのヘソ踊りがご所望という物好きのお大尽さまに呼ばれて、こうしてまかり越しやした。へへへ」
 そう言って、また皮張り太鼓を鳴らそうとする、その手を押しとどめて、お里が声をひそめた。
「お座敷へ上がってもらう前に、ちょいと耳に入れといてほしいことがあるんだけどね……」
 人目をはばかるように素早く辺りをうかがってから、彼女は小袖のたもとで覆った口を平助の耳元へ寄せた。
「成田屋さんがご逗留されるのは、静波のお座敷なんだけどね……。平助さん、あんた静波が、元はさる大店の娘だったって話、聞いたことあるかい?」
「いえ、初耳です」
 平助は、小さくかぶりを振った。お里が、ふうとため息をつく。
「あの娘の生家はね、下野屋といって、もとは仙台藩御用達の献上物箱問屋だったのさ」
 箱問屋……。
 平助の頭のなかで、なにか閃くものがあった。
「じゃあ、あれですかい。ひょっとして、成田屋さんとなにか因縁でも……?」