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ひこうき雲

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8.折れた針


「ただいま。」
 家族を起こさないように静かに言いながら玄関のドアをゆっくりと開けるが、一戸建てのように重厚なドアが動かす短い廊下の空気はアパートらしいラフな立て付けの引き戸やドアを揺らして大きな音を立てさせる。いつものことだが儀式のように続けてきた誰にも聞かせるつもりのない俺の「ただいま」を打ち消す。
 廊下の奥のリビングのドア。はめ込まれた磨りガラスがリビングの灯りを白く映す。
そこに黒い影が軽やかに動き、ドアを開けて駆け寄る妻の笑顔があったのは、遥か昔の話。。。やがて子を産み、育てゆくうちに影すら映らなくなったこの磨りガラスに、今日は影を期待している自分がいた。
 俺も勝手だよな。。。
 玄関のドアに向き直り、狭い玄関に屈み、脱いだ靴を静かにそろえる俺は、ついでに他の靴まで揃える。
 やっぱり俺は勝手な男だな。。。
 短い廊下の奥のドア、相変わらず何の変化も見せない磨りガラスに何かを期待する自分に今度こそ俺は苦笑した。
 毎日のように帰りの遅い俺。
 子育てに疲れた妻に「待ってないで先に寝てていいんだよ。」と何度も声を掛けてきたのは俺自身だ。
 自分で言ったくせにとんだ「構ってちゃん」だぜ。。。ま、子育てが落ち着いた今は疲れ果ててる理由が違うのが腑に落ちないところだか。。。どうせライブ動画の観すぎだろ。。。
 それはそうと絨毯が敷いてあるとはいえ、リビングの固い床の上で寝転んでいては体の節々が痛くなるだろうに、「先に寝ていてくれ。」という言葉にはなんとか従ってくれるようになったが、「リビングじゃなくてベッドで寝なよ。」という事は何度言っても未だに聞き入れてもらえない。それどころか、冬は毛布、夏はタオルケットをリビングに常備しているほど「リビング寝」が定着している。
 そのくせ起き上がる時には毎回のように「痛たたた。」と呻きながら起きるのだ。
 横一文字にドアから突き出てさり気ない曲線を描いたノブをレバーのように下にさげて、ゆっくりと引く。誰も起こさないように。。。
 やっぱり寝てる。。。
 リビングの床にはパステル調の座布団を二つ折りにして枕にした妻が体ごとこちらへ向けて横になっていた。タオルケット越しに昔と変わらないラインがなだらかな起伏を見せている。
 そして薄く開いた唇からは、静かな寝息が漏れる。
 その姿に、愛おしさと男としての欲求が競うようにこみ上げてきて、たまらず唇を重ねたのは遙か昔のことだ。。。だが、今も目の前の妻は俺にとっては変わらない。だが込み上げてくる昔と変わらぬ想いは、いつものように傷だらけのプライドが俺を引き止める。
 そう、傷つけられた男のプライド。。。40を過ぎた頃からだったか、夜を拒否され始めた。「リビング寝」で拒否されたときはさすがに疲れているのだと思っていたが、ベッドでも当然のように拒否された。拒否されるといっても明確に「イヤ」と言われれば、「なんで?」と会話につながるのだが、這わせた手を軽く持ち上げて体の外へ追いやられる。針が折れたレコードのアームの動きのように。レコードと言われても今の若者には通じないかもしれないな。
 レコード。。。CDに取って代わられた音楽メディアのことだ。CDの何倍もある大きな円盤に円周状に幾重にも掘られた溝を持つレコード。俺が幼い頃はまだレコードを見掛けることが多かった。もう実物を目にすることは殆どないが今でも俺はこの動きが好きだ。
 アームの先端に取り付けられた繊細な針が、回転するレコードの溝を舐めるように這う。そして溝に刻まれたメロディーを感じ取って音に変える。ゆっくりとアームが動きレコードの外周に柔らかく針を降ろす。そしてじっくりとレコードを這う針がありのままを感じとり奏でる。内側の溝の終わりまで慈しむように溝を撫で終えた針は満足げにアームに持ち上げられてゆっくりと外周の外へと去っていく。そしてレコードは余韻に浸るように回転の力を弱めて惰性で回る。。。
 だが、針の折れたレコードの動きは雑だ。回転するレコードの外周に降り立ったアームは弾かれるように一気にレコードの上を内側まで滑り切り、外周の外へと引き戻される。まるでレコードに嫌われたかのように。。。そう、針は追い出される。。。のだ。今の俺のように。。。折れてさえいなければいつものようにレコードと奏でられるのに。。。
 俺は何で「折れた針」になってしまったのだろうか。。。新婚のころから体形には気を付けてきた。筋トレもしてきたし白髪こそ増えてきたが髪の毛は健在だ。
 俺に落ち度はない。。。
 それどころか、俺の前ではお洒落をしてくれなくなった。スカートでさえ履いてくれない。もともとスカート派ではない妻だったが、女性=スカートという俺の願いを重んじてくれていた若い頃、妻はスカートを履いてくれたっけ。。。子育てでそれどころではなかったのだろうと自分に言い聞かせて自分を抑えてきたが、子供が中学を卒業してもなお変わらなかった。昔と変わらず美しく愛しい妻。。。もう一度俺のために輝いて欲しいと想うのはいけないことか?
 だが、大好きな男性アイドルグループ「吹雪」のライブに行くときは別だった。妻はお洒落をしてスカートを履き、悔しいくらいに輝いて旅立っていく。。。
 俺は妻にとって「男」という存在ではなくなった。
 それを決定的にしたのが「折れた針」現象だった。。。

 ま、仕方ないか、、、俺にはモテ期がなかったからな。30代まで男扱いして貰えただけでもありがたいと思わなきゃならないところか。。。
 振り返れば確かにモテ期こそなかったが、全く彼女がいなかった人生でもなかったな。。。こんな俺だって何人かの女性と付き合ったことはあるんだ。両手の指を使うほどではないが。。。
 もしアイツと結婚していたら。。。あるいは、あの女と結婚していたら。。。あってはいけない人生のifに妄想を膨らませる程度は許されるのだろうか。。。だが、せめてもの妄想はいつも結末に至ることはない。
 パイロットめ。。。
 あの時の屈辱と絶望感が俺の心に闇を創り、妄想を凍結させる。そして凍り付いた妄想は無念の壁に当たり粉々に砕け散る。
 それでも、俺は妄想をやめるつもりはない。
 俺は悪くない。。。変わったのはお前の気持ちの方だ。。。
 それがせめてもの俺の「男」を維持する原動力だ。空しいのは自分でも分かってる。笑いたければ笑うがいいさ。
 心の中で捨て台詞を吐き、もう一度妻を見下ろす。
 今の俺はどんな眼差しをしているのだろう。昔お前が気に入ってくれていた「優しい瞳」でないのは確かだな。。。
 
 お前のせいだ。。。

 ふと溜息が漏れる。いつから俺はこんな小さな男になってしまったのか。。。
 まあいいさ。
 もうすぐ俺は東京で単身赴任だ。お前も「男の価値のない」旦那に余計な気を遣わずに済むだろう。俺もこんな荒(すさ)んだ気持ちでお前を見詰めることもなくなるだろう。

 東京か。。。
 ふと、会社のパソコンに届いた公子からのメールが脳裏をよぎる。心の中に眩しい光が溢れる。

 馬鹿か、俺は。。。ただの社交辞令だろう。。。いいオッサンが何トキメいてんだ。。。

 もう一人の醒めた自分が釘を刺す。
作品名:ひこうき雲 作家名:篠塚飛樹