小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

鍋底

INDEX|1ページ/1ページ|

 
    鍋底
            
「鋳掛け、鋳掛け、鍋持って来い」
 子供の頃、道からその声がすると、長屋の女たちが、底に穴の開いた鍋を手に外に出て来る。僕は、ガラッと、玄関のガラス格子の戸を開けると、一目散に鋳掛屋のおっちゃんの傍に走って行ったものだった。三方をブリキ板で囲んだ火床に顔を寄せて竹の鞴を吹いているおっちゃんとは馴染みだった。
 路地裏の長屋の道端に共同井戸があった。住人たちがバケツに水を汲んで持ち帰る。家に風呂はなく近所に銭湯があった。近所の人たちと背中を流しあって、仲良く話をする。下足番がいて下駄を揃えてくれていた。
 そんな環境で育った僕がまだ生きている。赤紙召集で徴兵されたが、本土決戦がなかったので生き延びた。その時は数えで十八歳だった。戦後は闇米で食いつないだ。担ぎ屋が運んできた。進駐軍の物資の横流しで稼いだ連中がいた。戦後の財界人がその中から生まれた。流通革命の覇者となった中内はその一人である。
 日本住宅公団の賃貸住宅はあこがれの的だった。この住宅は六畳と四畳半の二部屋と細長いダイニングキッチンという手狭なものだったが、木製の箱風呂が備えてあって、当時は文化生活の象徴だった。だが、居住空間の狭さが、翻って見れば、今日の少子化の根源だった。
 団地には住民のための駐車場もあった。子供たちのための遊び場と遊具も揃っていたので、母親たちは自室の窓から子供たちを見守っていた。我が家も新婚早々で長男が生まれていた。
「鍋物にしましょうか」、冬になると、妻はいつも決まったように言った。鍋料理は手間が省ける。鍋を突き合って育って来たから親兄弟が身近だった時代を私たちは懐かしく思い出していた。
 だけど、この時は既に、個室、個食の個の文化に向かって時代は動いていたのだった。子供たちが大きくなると自分の部屋を求めるようになる。子供の成長ととともに、戸建ての時代がやって来た。人々は庭付き一戸建て住宅に競って住み替えるようになった。
 我が家には、昭和三四年生まれと三九年生まれの二人の男子がいて、夫々個室に籠っていた。EXPO70(万博)の頃まだ幼かった弟が、いつの間にか、新人類と呼ばれる若者に育っていた。我が家では、鍋を突く習慣が続いていたのだが、この頃になると皿料理に代わっていた。出来たものを買ってくる中食が増えたのである。外食は高くつくからたまにしかしない。竃と井戸ではなく、電気釜と水道、薪ではなく瓦斯栓の時代になっていたが、食事支度は楽しみと厄介が混じっていると妻が苦笑気味に言っていた。
 この頃から少し経つと、包丁のない家が増えたという記事が新聞に載った。新婚世帯では料理をしたがらない嫁が増えたという。幼い頃から買い食いで育ってきたからだという推測もついていたが、新婚世帯では夫婦共稼ぎで家庭には寝に帰るだけというケースが増えていた。
 高度経済成長で家庭が崩壊した、故郷が過疎で消滅しそうだという家族社会や村落の悲鳴をよそに、新人類の子であるスマホ世代は
「ポケモンGO」に興じている。このゲームの配信開始から一か月余りの間に東京都内で少年計533人を補導したと新聞に載った。
 裸電球の下で鍋を突き合った僕の子供の頃の家族は戦争におびえていた。今でも当時の両親の不安な顔が目に浮かぶ。蛍光灯の白い光を受けて暮らした戦後の僕たちの世代は平和を満喫した。そのおかげで息子たちは貧しさを託って鍋を囲む事もなく育ったが、個室ブームが到来、ゲーム機の登場で家庭内での親子の会話が消えた。家族が肩を寄せ合って食事する風景は次第に消えて、家族のそれぞれが自分の都合いい時に個食するようになった。
 駅なかのコンビニは学校の退け時には高校生たちでいっぱいになっている。息子の子の年代である。ファイバーの容器に盛り付けたありとあらゆる種類の鍋物がずらりと棚に並んでいる。店では、《温めますか》と客に声をかけてくれる。電子レンジで温かい鍋物が出来上がる。
 孫たちの世代は親の制約からすっかり解放されている。家庭の光源もLEDに変わっている。その孫たちを襲っているのは、人工知能であるし、インターネット社会の進化である。彼らは否応なしにデジタルな割り切り方をして生きるだろうが、割り切れないアナログな生き方が命の泉であることを誰かが教えねばならない。僕は息子家族にこのことを告げたくて、座敷わらじが出るという田舎家の鍋料理に誘うことにした。鍋の底が抜けるまで生き抜いてもらいたいという思いがある。
                 




作品名:鍋底 作家名:佐武寛