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セツエン

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 遠方で折り重なる山々は灰で化粧をしたかのように命のない色をしている。葉のない木々ばかりが点々と生えて、山は病で毛の抜け落ちた獣のようにみすぼらしい。遠方の高き頂きのみ汚されず雪の白を保っている。冷たい風が吹きぬけて積もった雪の欠片が舞い踊る。
 山の中腹に建てられた小屋から五人の男と三匹の犬が外に出た。男達は頭に編笠をかぶり、背に羚羊の毛皮をかけ、足も同じ獣の足袋と円形のかんじきを、腰に雪かく大きなへらを挿し、藁の手袋した屈強な腕には獣を殺める槍が握られている。彼らの目に鮮やかなものは映りはしない。だからこそ赤を求める。
 天へと昇る日の下で一列となり雪を踏み進む。先頭はオヤユ、最後尾はセツエンとカンムだ。畑を荒らされたモンも列の半ばにいる。誰も口は動かさない。村で使う言葉には人の臭いが染みついており、口にすると獣が逃げてしまうと言われていた。無駄口を叩いた者には裸で冷水を浴びさせるといった罰が定められている。もし会話が必要なときは特殊な山言葉を用いなければならなかった。
 足を止めてセツエンは辺りを見回す。獣の気配を感じたらしい。カンムは彼の腰に鼻を当て、首をふってブナの木を示す。お前はこんなのも見つけられないのか、と自慢げな様子だ。木の下の雪面に点々と獣の足跡が残っていた。
 石を投げて青年はオヤユに知らせる。山言葉で幾つか話し合った後、男達は再び山を登り始めた。村で口にすることが禁じられていた為に父から習うこともなく、セツエンは山言葉を一つも知らなかった。だが、そのおかげで会話をせずに済んだので幾分か気が楽だった。
 足跡を辿ろうとするカンムを押さえて、セツエンは列を崩さないように歩く。しばらくしてオヤユは立ち止まり、犬を従わせる男達に「行け」とあごで指示を出した。セツエンはカンムの背をなでる。振り返る彼女に麓の方を指さした。彼女は一瞬で駆けた。他の二匹を追い抜き、圧倒的な速さでカンムは生き生きと走る。その堂々とした姿を誇りに思いながら、青年は彼女の後を追った。
 カンムが他の犬と別方向に進んだので狩人の衆は二手に分かれ、セツエンはオヤユ、モンと共に行動をすることになった。無言の間、青年は病に伏せた父が語ったことを思い返す。それは先ほど足跡を見つけた獣、羚羊を狩るときの話だった。
 雪が降り始める頃、羚羊は川沿いに生えた芽を食べるが、寒さが厳しくなると草木を食いながら頂きへ向かっていく。彼らを狩る時は先回りして山頂まで登り、食い物のない道を下へ下へと犬に追わせ、疲れ果てた所を仕留める。肉も内臓も美味で、毛皮も役に立つ。冬は奴らを狙うのが一番だ。彼の父はこう語った。
 今まで思い描いてきた父の狩り姿に青年は己の姿を当てはめる。足の速いカンムならばもう見つけているかもしれない。期待に胸を膨らませながら、セツエンは彼女が雪に残した跡を辿る。

 日が緩やかに沈んでいく。雪面に足跡は残されていたが、あれからずっと彼女の姿は見られなかった。セツエンの内にあった興奮はいつの間にか不安へと化けていた。前へ進もうとする彼の手をオヤユが掴む。モンが雪に穴を掘って、泊まる備えをしているのが青年の目に入った。
 セツエンは首を振り、彼女を追おうとした。だが、オヤユの力は強く振りほどけない。凍える冬の夜にカンムを独り置いていけるものか。二人がかりで押さえられ、必死の思いで彼はもがく。急に青年の体から力が抜け落ちた。
 獣が吠えた。その力強さに身の内まで震えが伝わるようだった。男達に向かってカンムが駆けて来ている。その気迫に押され、オヤユとモンは青年を放して武器を構える。セツエンが走って彼女を抱きとめるも、カンムは興奮した様子で男達を襲わんばかりに吠え続ける。聞こえる鼓動がなだらかになるまで、ゆっくり、ゆっくりと彼は彼女の背中をなでた。
 カンムが落ち着いたのを確かめてから青年は深く息を吐いた。そうして彼女から生ぐさい臭いがするのに気づく。口の周りに血がついている。血の跡を目で辿ると息絶えた雪兎が落ちていた。青年の視線を察したか、雌犬は小走りしてそれをくわえ、セツエンへと運んだ。
 先ほどまでの不安が嘘のようだった。カンムは流石だ。羚羊には追いつけなかったのだろうが晩飯はきちんと用意してきた。お前が山に入れば食う物には困らないのだな。そんなことを考えながら、いつものように兎を切り分け、半分をカンムに渡した。己の分を調理しようとして二人の存在を思い出した。
 モンは物欲しそうに、オヤユはいつもと同じ暗く冷たい瞳でこちらを見ている。獲物は狩りの場に居たもので分け合うと、山へ入る前にオヤユから話しを聞かされていた。本来は初めの分配から頭のオヤユが行うはずだったのだ。小屋や防寒具を借りている身を鑑みて、セツエンは迷った末その肉をオヤユへ渡す。約束を破ってはならない。不徳な行いは山の神の怒りを買う。だから渡すべきなのだ。そう己に言い聞かせる。
 カンムはそれを見ていた。肉を噛むのを止めて、口を開けたままじっと見ていた。翠色の瞳が向かう先に気づきながらも、セツエンは彼女を視界に入れようとはしない。胸に広がる薄汚れた想いは何であろう。後ろめたさに向き合おうともせず、セツエンはオヤユが肉を調理するのをぼうっと眺めた。
 日が暮れて寒さは一層厳しくなった。モンが作った雪穴は冷風を防ぎ、オヤユから借りた毛皮や防寒具は体温を保ってくれた。いつもと変わらぬ装いの彼女が心配になり、セツエンはカンムを抱く。逆に熱を強く感じた。彼女を久しく抱いていなかったのだと青年は気づく。
 彼女の温もりは変わらない。それに甘える己も昔のままだろうか。セツエンは己に問う。情けなさに翠の瞳を見ていられず目をつむる。雪兎を見て何を得意げになっていたのだろう。カンムを頼るだけで何もしていないではないか。明日は、二人を置き去りにしてでも彼女に追いつく。カンムの隣で共に獲物を仕留める。彼はそう決意する。ひとたび想いが定まると疲労が眠気を呼び込んだ。雌犬の毛に顔をうずめながら、母に抱かれる幼子のように安らかな顔で、セツエンは眠りについた。

作品名:セツエン 作家名:周防 夕