小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

セツエン

INDEX|3ページ/14ページ|

次のページ前のページ
 



 日暮れ頃、セツエンはカンムを連れて村まで帰ってきた。アケビやグミの実で腹を膨らませて少年は上機嫌だった。突然、彼の表情は曇り、足が止まる。夕焼けで赤らんだ地面に人の影が落ちていた。不気味に長く伸びたそれを辿ると、少年の家の前に大人の男が立っていた。
 セツエンに気づき、男は荒々しい歩みで近づいてくる。つり上がった太い眉の下、血走った目が少年を睨みつける。男はソクの父親だ。鬼のような形相があまりに恐ろしくて、セツエンの頭は真っ白になる。
「この糞ガキが!」
 男はセツエンを殴った。
 頭の中がぐらぐらと揺れ、何も考えることが出来ない。頬の痛みは遅れて届いた。
 カンムが吠える。男へ飛びかかり足に噛みつく。直ぐに腹を蹴飛ばされた。セツエンはちかちかする視界でそれを見た。立ち上がろうとして自分が横たわっている事に少年はようやく気づいた。
「カンム、だめだ、カンム……」
 ふらつきながら彼女の元へ向かう。抱きかかえて具合を確かめる。血は吐いていない。息は荒いが呼吸はしている。無事を確かめ、抱く力はより強くなる。
「なんだあ? 獣と乳くり合って。まったく、淫売のガキが! 村の面汚しめ!」
 男の目は少年を映していたが、それは人を見るような目つきではなかった。優しさも哀れみもない、物を見るような目つきだった。
 父がいた頃はみな優しかった。今は違う。少年はうずくまりながら、自分は卑しい存在で、虐げられるのも当然なのかもしれないと思い始める。たとえ痛めつけられようと、その原因が己にあると思えば心は僅かでも楽になった。
 転がっていた木の棒を手に取り、男はゆっくりと少年へと迫る。カンムは目を見開き、牙を剥き出しにしてセツエンの腕の中で暴れた。
「犬っころの頭を叩き割ってやる! 晩は犬鍋だ!」
 獣が猛り吠える。カンムは興奮のあまりセツエンの腕に噛みついた。彼は黙ったまま痛みをこらえ、目をつむり彼女を強く包む。暗闇の中、温もりと激しい鼓動が伝わる。彼女の命を感じる。その一瞬、外の事柄はかき消え、こんな状況にも関わらず少年の心は安らかだった。
 いつまでも痛みは訪れなかった。ゆっくり目を開けるとソクの父の手を他の男が掴んでいた。年は三十半ば、体つきは大きく、顔は四角い。その右頬には獣に付けられた大きな傷跡が残っている。少年の面倒を見ているオヤユという男だった。
「オヤユよ、なぜ止める? そいつはソクに怪我させた」
「子供を殴ったんだ。もう充分だろう」
 少年から距離を置いて二人の男は低い声で言い争う。オヤユの背中を見てセツエンの気がゆるむ。セツエンの父とオヤユは共に猟をする狩人の相棒だった。だから村の中で彼だけは自分の味方をしてくれると信じていた。
「殺さねえと気が済まん。しつけのなってねえ犬は危ねえぞ。お前だって娘がおるだろ!」
 その言葉にオヤユはひととき固まった。セツエンを一瞥した後、ソクの父と小声で話し合い、両者ともにうなずく。何を話したのか少年には聞き取れなかった。
 話しは終わったようだ。ソクの父は荒々しい足どりで去って行った。オヤユはセツエンの前に立ち、少年を見下ろしながら口を開いた。
「大した怪我はしてねえな。今晩はうちで寝るか。ただ、うちの娘は犬が苦手でな……」
 そう告げた瞳はひどく黒く濁ってみえた。ある夜、自分を見捨てた母の目のように、優しさも、温かさも感じとれない。
「……おれがいない間に、カンムに何かするつもりか?」
「いいや、だが少し離れたほうがよい。しつけのなってない犬は危ねえ。そのままでは共に暮らせんぞ」
 その言葉を少年は知っている。先ほどソクの父が口にしたのと全く同じものだ。頼りにしていた唯一の大人にさえも少年は裏切られた気がした。カンムと離れた暮らしとはどんな暮らしだろう。ソクたちに虐げられ、隣に誰も居ない独りきりの日々が思い浮かぶ。セツエンはオヤユを睨む。
「そう言って、あの男にカンムを殺させるつもりだろ!」
 子犬を抱えてセツエンは我が家へ帰る。オヤユは追って来なかった。腕の中で暴れている彼女を玄関に降ろす。
「おい。蹴られたのは大丈夫か?」
 しゃがんで彼女のあごをくすぐった。カンムは面倒くさそうに顔を背ける。しつこく彼になでられ続け、とうとう笑うように吠えた。じゃれ合って玄関で転がりあう。
「……うっ」
 噛まれた傷を柱で打ち、セツエンは痛みの声をもらす。カンムはすぐに彼の右手の傷を舐めた。
「カンム、お前の眼はきれいだなあ」
 翠色の瞳をじっと見る。今日は彼女に助けられた。ソクからも、その後の不安からも。ふとカンムが蹴飛ばされる光景が思い浮かぶ。恐ろしさに身が震えた。セツエンは左手でカンムの背中をなでる。毛が柔らかく気持ちよかった。唾液が染みて傷が痛む。舌はわずかに冷たい。だが彼女の温もりが伝わった。
 彼女の隣に居たい。彼女を守りたい。その強い願いは、自分たちを傷つける大人たちへの不信感を強く大きく育んでいく。
「オヤユも母さんと一緒だ。父さんとは違う」
 日はとっくに暮れていた。火の付け方を少年が知らずにいたので家は冷える一方だ。カンムを抱き寄せて暖をとる。両親と暮らした風景を荒れ果てた今の部屋に重ねながら、彼は在りし日を思い返す。

 冬、遠くの山まで狩りに出た男達は二月帰らないこともあった。父の居ない夜が怖くて、少年は母の布団で寝たものだった。
『おっとうは村一番の狩人だから大丈夫。毛皮と肉を売ってたくさん稼いでくるさ』
『わたしも、おっとうも、セツエンが一番の宝ものだからね。必ず戻ってくる』
 母の言葉から愛情を感じとり、彼は安心して眠りについたものだった。
「……人は口だけだ」
 母が商人の男と駆け落ちしたのは父が亡くなってから一年経った去年の春だった。深い夜、布団に入っていたセツエンは物音に目覚めて、逃げようとする二人を見た。
「母さん、母さん」
 そう呼びながらしがみつく彼を母は蹴り飛ばした。柱から出ていた釘が足にささり、左足の太ももを切り裂いた。床に広がる血を目にしても母は息子へ手を伸ばそうとはしなかった。彼は捨てられ、恥知らずの子として村中から疎まれるようになった。
「オヤユだってそうだ。ソクにいじめられても、助けてくれない。今日だっておれを騙そうとした。嘘だ。嘘ばかり言うんだ」
 セツエンはカンムを抱きしめる。
「お前は違う。お前だけなんだ。おれのことを想ってくれるのは」
 一人と一匹の間に言葉はいらない。彼は彼女の鼓動を聞く。優しく力強い音だった。それが今の己にとって何より大切なものだとセツエンは気づいた。この時から、村人たち他人が彼にとってどうでも良いものへと変わった。
 腹が減れば協力して獣を狩り、時に木の実や山菜を食べた。カンムはのろまなセツエンにしっかりと獲物を分けてくれたし、セツエンは不器用なカンムのため水草を乾かして越冬用の布団を作った。互いの温もりを分け合い、冬を越す。
 春が来て、夏を越え、秋が訪れ、冬になる。村人たちは彼から距離をとり続けた。カンムはずっと少年の隣にいた。五年の時を重ね、セツエンは一人と一匹で暮らしている内に十四歳になっていた。

作品名:セツエン 作家名:周防 夕