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先輩

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第7章 平凡な日常と先輩



   1

 私は五歳の頃、半年ほどだが家の近くにある音楽教室へ通っていた。
 後から知ったのだが、その教室は幼い頃からレベルの高い教育をし、将来有望な音楽家にさせるための教室だったらしい。そんなことをうちの母が知るわけもなく、私はそこに入らされ、その結果、ついていけなくて半年で辞めたという始末だ。
 そんな短い間でも、唯一思い出した出来事があった。
 それは私が教室を辞める一週間前――。
「さやちゃんはすごいねぇ」
「どうしてあんなぐちゃぐちゃな音がぜんぶきこえるの?」
「手品でしょ、ぜったいタネがあるはずだよ」
「あの子、一ヶ月で完全に音が分かるようになったらしいわよ…」
「あたしも幼い頃に同じようなことをして身につけたけれど、全ての音を完全に聞き取れるようになるには、三ヶ月ぐらい掛かったって両親から聞いたわ」
 聴音の時間に生徒やその親がざわざわと騒いでいる中、一人の少女は退屈そうにピアノの前に立っていた。その少女の隣に立っていた私は、じっと、彼女の人形のような顔を見詰めていた。
「じゃあさやちゃん、次の音いくよー!」
 先生が元気そうに掛け声を言って、ピアノを鳴らす。しかしその音は何重にも重なった、不協和音だった。
 少女は淡々と音名を答えていく。
「すごい! また全問正解! さやちゃんは天才だね〜」
 先生が立ち上がって拍手をすると同時に、また周りの親子がしゃべりだす。
 私の隣に立っている少女――龍ヶ崎沙耶は、それでもちっとも嬉しそうな顔をしていなかった。
「じゃあ、次はみきちゃんの番ね〜。 みきちゃんはさやちゃんよりちょっと簡単なのにするね」
 多少声のトーンを下げて先生はそう言い、また同じようにピアノを鳴らす。いくら沙耶よりは簡単といっても、お遊戯しかやらないような教室と違って、ここは英才教育専門なのだ。当然私はひとつの音も当てることが出来なかった。
 別に絶対音感を身につけたいとか、沙耶より出来る子になりたいとは思わなかった。微塵も思ってない――と言ったらウソになるが、そんなことよりも綺麗で何でも出来る沙耶が羨ましかったのだ。
 
 その日のお勉強の時間が終わった後。普段は母が迎えに来てくれているため、終わったらすぐ帰れるのだが、その日は何か用があったらしく、母はまだ迎えに来ていなかった。
 他の子は皆、終わったらすぐにお母さんと一緒に帰っていってしまい、教室に残った生徒は私と沙耶だけだった。
 私は他の子がいなくなった瞬間に大泣きした。沙耶と二人きりになることが、駄目で不細工な私と、天才で綺麗な彼女を比較されているようで辛かったのだ。
 先生が付きっ切りで必死に宥めてくれたが、完全に納まるまで三十分ほど掛かった。
 涙で腫れた目を擦りながら、私は沙耶に言った。
「りゅうちゃんはいいよね。かわいくて、音もぜんぶ聞こえて、ピアノも上手で」
 私は沙耶のことを、龍ヶ崎の頭を取って「りゅうちゃん」と呼んでいた。
「……そんなことない」
「うそ。わたしはりゅうちゃんみたいにかわいくないし、音もいっこもきこえないもん。それに、おかあさんも太っててたぬきみたいだし。りゅうちゃんのお母さんも、きっとおにんぎょさんみたいなんでしょ?」
「あたし……おかあさんいない」
「え……?」
「あたしがうまれてすぐ、リコンしちゃったんだって。だからお父さんしかいないの」
 その時の沙耶の表情は、聴音をやっているときの退屈そうな表情ではなく、どこか――寂しそうな表情だった。
「そうなんだ。ごめんなさい……」
「みきちゃんがあやまっても、おかあさんは帰ってこない」
「……お父さんのことは、好きじゃないの?」
「大好きよ。でも――お父さんは、かわいそう」
「かわいそう?」
「うん。いつもこわい人たちにいじめられてるの。なのに、お父さんはあやまってるだけなの」
 当時の私は沙耶の言っている意味が分からなかった。ただひとつ分かったのは、沙耶の家庭は普通の家庭と少し違う事情があることだけだった。
「だったら、これあげる」
 そう言って私は自分のリュックをあさって、沙耶にあるものを渡した。
「なに? このくまさん」
 私が沙耶に無理やり渡したのは、ピンク色のテディベアのぬいぐるみだった。五歳児の背丈の半分ほどある大きなそれを、私はリュックに無理やりつめていつもこの教室に持ってきていたのだ。
「わたしが三さいになったときにかってもらったの」
「そんな大切なもの、もらっていいの……?」
「いいの。そのかわり……今からこの子が、りゅうちゃんのお母さんね」
「あたしの、お母さん……?」
「そう。だから、ずっといっしょにいて」
「わかった。……ありがとう」
 そう言って、沙耶はくまのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
 そのとき、沙耶は初めて幸せというものを感じたかのように、心から喜んでいたようだった。笑顔の瞳から、僅かに涙が零れたように見えた。
 それから五分ほどで二人の親がほぼ同時に迎えに来て、私と沙耶はそれぞれの家に帰っていった。沙耶を迎えに来たのは銀色の髪の男の人だった。
 
 一週間後、私はその音楽教室に行かなくなってしまった。
 
 まさか、あんなカタチで彼女と再会するとは――当たり前だが、このときは全く思わなかった。
 
作品名:先輩 作家名:みこと