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相思花~王の涙~【前編】

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―この物語をこれまで私を応援して下さった方々へ捧げます―









 夢の始まり

 小さな手荷物一つを持った少女がその日、国王の住まう宮殿の門をくぐった。少女は大きな黒い瞳を輝かせ、物珍しげに周囲を見回している。絶世の美女というには少し及ばないが、よくよく見れば、黒曜石のような棗(なつめ)型の瞳は生き生きとした煌めきを放ち、見る者を思わず引きこまずにはいられないだろう。
 彼女の魅力は何と言っても、その生命力に満ちた瞳にあった。また丈なす黒檀のような髪も今はまだ成人前とて結わずに後ろで一つに編んで垂らしている。髪を飾る唯一の赤い髪飾りには薄紅の百合の刺繍が控えめに施されていた。
 纏うチマチョゴリは上衣が薄紅色、チマは紅梅色だが、むろん木綿の粗末な代物にすぎず、彼女が裕福な両班(ヤンバン)の娘ではないことは一目瞭然だ。
 国王の女と見なされる女官には選りすぐりの美女が多い中、この容色ではさほど目立つほどではない。もっとも、彼女のような両班の令嬢でもない娘が国王さまの御前に出る機会など、たとえこれから五十年の生涯を後宮で費やしたとしてもあり得ないだろうけれど。
 後宮の女官ならば、誰もが夢見るのは国王の寵愛を受けること。今の国王永宗は今年、二十五歳になった。この若さで、既に二度も妻に先立たれているという女運の悪さだ。最初の妻、仁容王后は永宗がまだ世子(セジヤ)時代に嫁ぎ、彼が父王の跡を受けて即位した十七歳の時、王妃に冊立された。共に十七歳の若い夫婦だった。
 領議政(ヨンイジョン)の娘にして名門両班家の息女である最初の王妃は、王とも幼なじみであり従兄妹の間柄でもあった。王の生母姜氏(カンし)が王妃の実妹であったからだ。そのお陰で王妃は姑からも愛され、幸せな新婚時代を送った。が、肝心の王との仲は睦まじいとはいえ、兄妹のような域を出ず、褥を共にするのも月に一、二度の淡いものにすぎなかった。
 仁容王后は王妃となって三年目の夏、都に流行った痘瘡にかかり、二十歳の若さで亡くなった。
 その一年後、再び国中の両班家の適齢期の息女に対して禁婚令がしかれた。選ばれた娘たちの中から更に選考を重ねて選ばれたのは左議政(チャイジョン)金ソチョクの娘だった。今度は王よりも八歳も下の十三歳の若さであり、元々、身体も弱かったことから、余計に幼く見えた。
 この結婚も長くは続かなかった。盛大かつ厳粛な嘉礼(カレ)を百官の前で執り行った半年後、幼い王妃は十三歳の儚い生涯を閉じた。ふとした風邪をこじらせたのが因(もと)であった。
―中殿(チュンジョン)を殺したのは私のようなものだ。この幼さで王妃の重責があの者の生命を縮めたのだ。
 心優しい国王は幼い王妃の死に落涙した。しかし、この十三歳の王妃はあまりの幼さに、国王とはまだ実質的な夫婦関係を結ぶに至ってはいなかった。良くも悪くも二人の妻との関係は王にとって男女というよりは兄と妹のようなもので、特に険悪ではなかったが、また深い情の通い合いなどもなかったのである。
 この二度の悲惨な結婚は若い王を打ちのめし、以後、どれだけ姜大妃(テービ)や大臣が新しい王妃を迎えることを勧めても、王は頷こうとしなかった。
 国王の後宮には王妃だけというわけではない。現在も三人の側室が控えているが、不幸なことに、その三人の誰一人として王の寵愛を得た者はいなかった。入内したばかりの頃はそれでも間遠に通っていた王もここ一年ばかりは昼間ですら側室たちの許に脚を向けていない。また、彼女たちが王の寝所に招かれることも絶えていた。
 かといって、他に王の関心を引く女官もおらず、永宗の後宮は至って淋しいものだ。最近ではよほどのことがない限り、後宮には寄りつきもしない国王を陰では?後宮嫌い、女嫌いの王?と皆が呼んでいた。中には
―男盛りのお若さで女人を一切近づけぬとは、申し上げるのも畏れ多いことながら、国王殿下は実のところ、男としての機能を失われたのではあるまいか。
 などと、真しやかに囁いている廷臣たちもいるという。
 果たして、真偽のほどは定かではないけれど、それでも若い女官たちの中にはあわよくば王の眼に止まり側室にと見果てぬ夢と野心を抱く者も少なくはない。が、肝心の王が後宮をまったく訪れないため、女官たちも国王その人の貌を知らないという有様だ。
 永宗の曾祖父直宗にせよ、祖父も父も皆、妻妾との間に数人以上の子女を儲け、順当に王室直系の血筋を今に伝えてきた。だが、時ここに至り、永宗にはいまだに妻も子もいない。元々、王その人がお世辞にも健康体であるとはいえず、世子時代は何度も重病にかかり、一時は危篤に陥り、後継者問題まで浮上したほどだったのだ。
 王位についてからはさほどの病にかかったたことはないが、それでも、政務が多忙を極めたりすると、微熱を出して寝込むことがある。そんな状態で世子もいない今、廷臣たちがしきりと世継ぎ問題を論じるのも当然ではあった。
 王の結婚と後継者選びを官僚たちが日々、論じる中、その少女は後宮入りした。彼女の名前は申仙娥(シン・ソナ)。

 初めての恋

 ソナは大きな欠伸を洩らしてから、思わずハッと我に返った。慌てて首を巡らせ周囲を窺っても、幸いにも人影は見当たらない。思わずホウと吐息をつく。
 こんな真っ昼間から大口を開けて欠伸をしているところをあの金(キム)尚宮(サングン)に見られでもしたら、大事になってしまう。昨日だって、井戸端で水を汲んでいて小さな欠伸を堪え切れなかったのを見咎められ、厳しい叱責を受けたばかりだ。
 その前は水を汲むのを怠けて隠れてうたた寝をしていて見つかり、鞭打ち五十回の罰を受けた。思い出すと、また鞭打たれた箇所が痛み出す。ソナはそっとチマの裾をめくり、脹ら脛を露わにした。白い膚に無残に走る傷痕は赤く腫れ上がっている。あの鬼尚宮に無情にも鞭打たれた跡である。
「私みたいな水汲み(ムスリ)なんて、どうせ国王さま(サンガンマーマ)の御前に出る機会もないし。これじゃ、張り切って後宮に来た甲斐もないわ」
 もちろん、自分のように身分もなく、美人でもない平凡な小娘が王の眼に止まるなど大それたことを考えているはずもない。ただ、国王さまの住まう宮殿に行けば、何かそこで運が開けるような気がして、つてを頼って女官の募集に名乗り出て雇って貰っただけだ。
 それこそ王の近くに侍る女官ともなれば選考も厳しいらしいが、いわば下っ端の下女にすぎない水汲みなどは選考もあってなきに等しい。身許保証人さえしっかりしていれば、さしたる審査も受けずに王宮に入れる。
 ソナの両親は早くに亡くなった。そのため、三つ下の弟の堯俊(ヨジユン)と共に子のない伯父夫婦に引き取られた。伯父夫婦はとても良くしてくれ、実の子のように二人を可愛がってくれた。が、その伯父も一昨年、亡くなった。伯母も優しい人だったから、もちろん、残された三人は慎ましく穏やかに肩を寄せ合って暮らしていた。
 しかし、ある日、代書屋をしていた伯父が多額の借金を残していたことが発覚した。清国渡りの貴重な書物欲しさに大枚を金貸しから借りていたことが判ったのだ。