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ベイクド・ワールド (上)

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第六章 呼吸をし、血液をめぐらす壁があったとき、我々はその壁を乗り越えることができるか



 深夜零時、僕と沙希は青葉シンボルロードの彫刻の前にいた。彫刻を破壊するために必要な『大きな金槌』は紺屋町にあるドン・キホーテで購入した。それは今、僕が肩から下げているアディダスのスポーツバッグのなかに入っている。さすがにこんな深夜に金槌を出して、手で持っていたら、どうかしているのに決まっているのだから。いや、それはスポーツバッグに入っていたところでも同じだ。僕たちは間違いなく、どうかしている。
 僕と沙希は彫刻を壊すためにうってつけの一本を探すことに非常に苦労した。ドン・キホーテの工具コーナーにはさまざまな金槌が置かれていた。世の中にこれほどまでに金槌で叩かなくてはいけないものが溢れているのかと思うほど、その種類は多かった。日曜大工に使う普通の金槌の他に、先が鋭利に尖っているものや、丸みを帯びたもの、さらには金槌の頭部が球状のものさえあった。どれが彫刻を壊すのに相応しいのか、僕のような金槌素人の人間にはまったく分からなかった。だからといって、店員に「すみません。彫刻を壊すのに、おすすめの金槌を教えてください」などとは言えるはずがないのだ。僕たちはさんざん迷ったあげく、金槌の頭部の重さが一・五キログラムもあるものを選んだ。まさに、それは『大きな金槌』と言ってもいいだろう。
 僕と沙希がいる場所からは交番が見えた。ガラスのタイル張りの小さな建物で一見すると公衆トイレのように見える。しかし、この公衆トイレのような小さな交番は僕に対して絶対的な圧力を与えていた。ただでさえ、こんな真夜中に学生が闊歩していたら補導される可能性だってあるのだ。しかも、僕は大きな金槌という凶器を所持しており、それを用いて公共物の破壊を行おうとしているのだ。まさに捕まるのには、うってつけの人材ではないか。
「とりあえず、交番のなかの様子を確認した方がいいわ」沙希が隣で言った。
 僕は黙って頷いてから、しゃがみながら迂回して交番に近づき、なかの様子を確かめた。しかし、警察官の姿は見えなかった。おそらく奥の部屋にいるのではないだろうか。奥の部屋で寝ていてくれ、と僕は心から願った。今日だけは怠惰な警官でいてくれ、と。
 僕は沙希のいる場所に戻り、「大丈夫そうだ」と言った。
「じゃあ、今のうちに済ませましょう」と沙希は静かに言った。
 僕は周囲を眺めた。この場所は市内の歓楽街からはやや外れた場所にあり、明かりもあまりなく、薄暗かった。ありがたいことに、まさに彫刻を壊すためには好立地だった。僕は彫刻を見た。ウィリアム・マクエリチュラン作の彫刻『出会い』。帽子を被り、コートを着て、鞄を持っている二人の男が出逢い頭にぶつかっているというような像。その二人の男はまったく同じ顔のように見えた。自分と自分が衝突しているようだ。この彫刻は何を意味しているのだろう。内部葛藤でも意味しているのだろうか、と思ってみたが、そんなことは今の僕にはどうでもいいことだった。僕は、ただ黙ってこれを壊すしかないのだ。
 僕は彫刻に手を触れた。そこには硬く冷たい感触しかない。それはまぎれもなくただの彫刻だ。触れるかぎり、僕たちが持っている大きな金槌で壊せるようには思えなかった。おそらく、金槌で叩いたら、僕の腕が壊れるか、金槌が壊れるかのいずれかであるような気がした。僕は思った。彫刻を壊すなど、僕のような金槌素人の人間にはできるはずがないのだ、きっと。
 僕は一度、手を放したあと、ぶつかり合う男の腕を掴んでみた。その瞬間、何かおかしな感触が僕の手を通して感じとれた。何なのだろう。掴んだ手から何かを感じる。何かが動いているような、そんな不思議な感触だ。僕はさらに強く、彫刻の腕を握った。
 おかしな感触がさっきよりも強く感じる。確かに何かが腕のなかで動いている。その動きには緩急があった。一瞬、緩やかになったかと思うと、次の瞬間、早くなる。
 僕はすぐにそれが何なのか気がつく。この感触は。

 鼓動だ。

 僕は彫刻の胸に耳をあてた。そうすると、聴こえてくるのだ、心臓が鼓動する音が。とくん、とくん、と心臓が血液を送り出すために規則的に収縮・拡大を繰り返している音が。
「鼓動が聞こえる。心臓が動いているみたいだ」僕は沙希に静かに言った。
 沙希も銅像に耳をあてた。それから僕を見てから頷いた。
「早く壊しましょう」と沙希が言った。
 僕は肩に下げていたスポーツバッグを地面に置き、ジッパーを開けた。自分でも分かった。手が異様なほどに震えていた。
 震える手で僕は金槌を取り出した。
「こんなもので本当に壊れるのか」と僕は呟いた。
「でも、やるしかない」と沙希は隣で言った。
 僕は交番を眺めた。警官はやはりいない。周囲を見回してみた。誰もいない。やるなら、今しかない。 
 僕は息をゆっくり吸ってから、ゆっくりと吐き出した。それから彫刻から離れ、後方へと下がり、金槌を両手でしっかりと掴んだ。ずっしりとした重さを感じる。
 僕は意を決し、彫刻にめがけて駆けた。暗く重たい夜の空気をかき分けながら、僕は勢いをつけていく。聞こえるのは空気を切り裂く鈍い音だけだ。身体が熱を帯びはじめ、金槌を握った拳のなかが汗で濡れる。グリップをきつく握りしめ、左足で踏み込む。そして溜められた力のすべてを金槌に込め、鼓動し続ける彫刻へと叩きつけた。
 僕はその感触に驚く。表面の金属がいとも容易くひび割れ、金槌が彫刻の内部に食い込んだからだ。そして、その感触はまるで生きた生身の肉体を殴りつけたかのような生々しい感触だった。剥がれた金属の奥を見ると、艶のある赤い肉が見えた。その肉は鼓動に合わせて脈打ち、うねうねと動き、まるで意志をもっているかのようだった。僕は呆然とするより他ならなかった。いったいこれは何なのだ、と。それは僕の理解をはるかに超えていた。
「早く壊さないと」沙希の声が後方から聞こえて、僕は我に返った。
「いったいどうやって?」
「それで突き刺すの」沙希が指差す先には僕の右手があった。震えている右手には金槌の頭部が吹き飛び、木製の柄のみが残っていた。柄は折れており、その先端は世界中に存在するありとあらゆる棘を集めてきたかのように暴力的に鋭く尖っていた。
 僕は沙希に言われるままに、彫刻内部の曝け出された肉に暴力的に鋭く尖った棘を強く突き刺した。
 その瞬間、真っ赤な鮮血が滴り落ちた。たらり、たらりと。そして、その痛みは僕の身体のなかにも伝わってきた。それは棘を通して、確かに伝わってきた。僕はその痛みを身体のなかにじかに感じることができた。

 痛み。痛み。痛み。

 身体の肉をえぐり、深くねじるかのような圧倒的な痛みだ。呼吸ができない。息を吐くことができず、過呼吸のように小刻みに息を吸ってしまう。立っていることができない。僕は膝をつく。それでも痛みは止まらない。痛みは池に放り投げられた石ころがつくる波のように身体中に伝搬していく。そして、次第に波は強められていく。波と波が干渉しあい、増幅されていくのだ。そのように痛みは僕のなかで深く、深く濃縮され、熟成されていく。僕の神経は痛みのみに収斂されていく。
「もっと奥深くに突き刺して」と沙希は言った。