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ベイクド・ワールド (上)

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第一章 どのようにして我々は眠りに落ち、どのようにして我々は眠りから醒めるのか



 目をあけると、僕は見知らぬ駅にいた。

 列車のソファに腰を下ろしたまま、向かい側の車窓の景色を眺めると、そこにはまったく見覚えのない景色が広がっていたのだ。ふいに車内に下車を促すアナウンスが鳴り響いた。僕は霞のかかった意識のまま、網棚に載せておいたスクールバッグを引きずり下ろし、よろめきながら列車から降りた。
 プラットフォームに降り立つと、列車の扉が空気の漏れるような音をたてながら閉じられた。そして、ゆっくりと列車は発進をはじめた、まるで何事もなかったかのように。ゆるやかな加速とともに駅を離れていく列車を僕はぼんやりと眺めた。
 僕は不思議に思った。どうして僕は見知らぬ駅に降り立ち、そこから離れていく列車を見送っているのだろうか、と。僕以外の誰ひとりとして、この駅に降りた乗客はいなかったし、周りに人影は見えなかった。ここはいったいどこなのだろう。
 潮の香りが空気のなかにかすかに混じっていることに僕は気がついた。前方にくすんだ色をした海が駅のフェンス越しに見えた。フェンスの近くにはトタン屋根がひどく錆びた倉庫が乱立していた。後ろを振り返ると、青々とした山が佇み、駅前に寂れた商店街と質素な住宅街が見えた。建物が少なく、緑が多いためなのか、蝉の声がいつもよりやかましく聴こえた。辺りの風景を眺めながら、プラットフォームをゆっくり歩いていると、僕は駅の看板を見つけた。僕はその看板をまじまじと見つめた。そこには『由比』という文字が見えた。
 そこで僕は気がついたのだ。僕は本来下車するはずだった静岡駅から数駅離れた駅にいるということに。けれども、その事実は僕の疑問に対して一切の解決をもたらさない。なぜなら、僕の疑問は列車のなかでどうして眠りに落ちてしまったのか、ということにあるからだ。なぜそう思うのかというと、僕は列車のなかで眠るということがありえない人間だからである。いや、それは列車のなかに限定するものではない。

 ようするに、“僕は眠らない”。

 それは僕にとってある種の性質のようなもので、僕は“ある時点”から睡眠欲というものを失った。これは他人に話しても決して信じてもらえないけれども、それは真実なのだ。もちろん、夜になれば僕も普通の人がそうであるように電気を消し、ベッドのなかに潜りこみ、目を閉じる。しかし、僕は完全な眠りのなかに落ちることはない。ようするに、意識は常に覚醒した状態にある。そんな僕が完全な眠りのなかに落ち、意識を喪失してしまう状態にあったということは明らかに不可解なことなのだ。
 僕は目を閉じて、ゼンマイをゆっくりと捩じるように記憶を巻き戻し、僕が眠りに落ちたであろう時間と場所を思い出すことにした。僕は藤枝駅で乗車し、スクールバッグを網棚に放り投げ、空いていたソファに腰を下ろした。通勤や通学の時間であったために乗客は多かった。僕の右隣りには神経質そうな四十代くらいのサラリーマンが携帯をいじり、左隣には茶髪の女子高生が鏡を見ながら、前髪をいじっていた。そして、しばらくして列車の扉は閉じられた。
 そこで僕は奇妙に思う。その後の記憶が思い出せない。列車の扉が閉じられた時点から、その先が思い出せない。いや、思い出せないというよりも、記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっていると表現した方が正しいかもしれない。こんなことがあるだろうか。たとえ気づかないうちに眠りに落ちてしまったとしても、記憶をたぐり寄せてみれば、眠気に襲われたことについての記憶は少なからずあるはずなのだ。まるで舞台のカーテンをすとんと落としてしまったかのように、記憶が奇麗に抜け落ちてしまうなんてことがあるわけないのだ。僕は混乱しないわけにはいかなかった。いったい何が起きたのだろう。普通の人にはきっと些細な問題かもしれない。ようするに、疲れていて眠りに落ち、そして疲れていたからこそ記憶が曖昧になったのだ、と考えることで容易に解決することかもしれない。けれども、その考えは僕には当てはまらない。眠りを失った僕にはそれは決してありえないことだし、あってはならないことなのだ。
 僕はもう一度、目を閉じ、思考の奥にひそんでいるはずの記憶をゆっくりとたぐりよせてみる。列車のなかの情景や、充満していた臭い、さまざまな音、それらを詳細に思い出していく。閉じた視界に広がる黒のスクリーンにそれらはゆっくりと映し出されてくる。記憶は透明な薄い膜のようなものに包まれている。僕はその膜をゆっくりと丁寧に剥がし取っていく。
 そしてようやく僕は思いだす。記憶が少しだけ前進する。列車が発車したあと、僕は制服の胸ポケットにしまっていた小説を取り出したのだ。もし小説が読み進まれていたならば、僕は列車のなかで小説を読んでいたことになるだろう。僕は昨夜までにその小説を五十頁まで読み進め、栞を挟んでおいたことは記憶していた。
 僕は胸ポケットから小説を取り出し、栞の挟まれた頁を開いた。頁数を確認すると、七十五頁だった。つまり小説は読み進められていたことになる。僕は列車のなかで小説を二十五頁読み進めていたのである。二十五頁を読み進めるにはいったいどれくらいの時間がかかるのだろう、と僕は疑問に思った。僕は一頁を読み進める速度を測定してみることにした。右腕につけた腕時計の秒針が十二時を示したとき、適当に選んだ頁を読み進めてみた。読み終えた後、時計の針を確認した。五十五秒だった。ようするに読む速度は一頁あたり一分程度であるということだ。二十五頁読み進めたということは、約二十五分小説を読んでいたということになる。僕はヒップポケットから、iPhoneを取り出し、乗換案内サイトで藤枝駅から由比駅に到着するまでの時間を調べた。画面上には四十五分と示された。時間の差は二十分。小説を読み進めていた二十五分は、僕が下車する予定であった静岡駅に到着する時間と近い。僕はその瞬間に意識を失ったということだろうか。いったいこの空白の時間に僕の身に何があったというのだろう。
 僕は小説にはさまれた栞を手に取り、まんじりと見つめた。何の変哲もない書店で配られる栞だ。ひととおり眺めたあと、栞を元の頁に戻した。小説を閉じ、胸ポケットにしまった。プラットフォームに設置された自動販売機を探し、缶ジュースを購入した。近くのベンチに座り、それを一気に飲みほした。冷えきった液体が僕の食道を通過し、胃のなかに満たされていった。僕は溜息をついた。いったい何だって言うのだ。しかし、いくら考えたところでそこには答えなどなかった。
 唐突に、列車の到着を告げるアナウンスがプラットフォームに鳴り響く。僕は自動販売機の隣に置かれたひどく汚れた屑かごに空き缶を放り込み、跨線橋を渡り、反対側のプラットフォームに渡った。

 静岡駅に到着し、改札を出たとき、時刻は午前九時を回ろうとしていた。今さら学校へ向かったとしても仕方ないし、僕は学校をサボタージュすることにした。そもそもこんな奇妙な出来事が起きたときに学校に行く気になれなかった。列車のなかであれこれともう一度考えてみたが答えは得られなかった。