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「底」

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音のない世界が好きになった。底にひっそり沈み、音のない世界で何も考えず、ただゆらゆら漂うように揺れているのが好きになった。
 優しく閉じていた瞼を開くと、外から差し込む光が水面に反射してキラキラ輝いて見える。その光は、かつて水貴〔みずき〕が追い求めていた光にも似て、限りない希望を感じさせるのに、同時にとても儚げでもある。
 失ってしまった希望。それまでの必死の努力もすべて無駄になってしまった。手も足ももがれた魚状態。それが今の私なんだと水貴は思う。

     * * *

 ――あの日までの水貴は、毎日毎日朝から晩まで、とにかく早く泳ぐこと。それだけを考えていた。記録をどんどん更新していく。それでもまだまだという思いに駆られ、貪欲にひたすら進むことしか考えていなかった。周囲の目は『水を得た魚』。それが水貴だった。

 初めて泳いだのは1歳の頃だったらしい。その他大勢の子供たちが水を恐れてギャーギャー泣き叫ぶ中、唯一人キャッキャッと可愛い歓声を上げていた。そんな水貴を見て両親は、彼女を『水の天使』と呼んだ。
 水の天使は、夏でも冬でも、機嫌がどんなに悪くても、水に入れられるとすぐにご機嫌になった。そんな水貴を見て、両親は「この子は天才だ! きっと水泳選手として有名になる」と確信していた。どこの親も親ばかなものだが、その後スイミングスクールに通わされた水貴は、成長とともにどんどん周囲の期待に応えていった。あらゆる大会で『優勝』という名の誉れを欲しいままにし、『負ける』という言葉は水貴の辞書にはあり得なかった。一度の挫折も知らずに当然のように辿りついたオリンピック出場という栄誉。もちろん人一倍の努力の賜物でもあったのだけど。それなのに――。

 ある時から、水貴は足に痛みを感じるようになった。だがそれは単なる筋肉痛くらいにしか考えていなかった。
 ――幼い頃からあまりにも酷使し続けているから、きっと足の筋肉が悲鳴を上げているのだろう。でも、それくらいのことに私は負けたりはしない――
 そんな強い自負があったから、その痛みのことは誰にも話さなかった。しかし、それがまさかこんなことになろうとは……。

 あの日、どうにも耐え切れない痛みに、水貴はとうとう病院に行った。あらゆる検査の後、医師からの信じられないような宣告。
「残念ですが、骨肉腫です。かなり進行しているし、転移の可能性もあるので切断するしか手がないと思われます」
「切断? そんな……。それじゃあ水泳は……?」
「術後の経過にもよりますが、快復すればできなくはないでしょう。しかし、当然ですが早く泳ぐことはできません。楽しむ程度ということで……」
 これからオリンピックに出ようとしていた水貴にとっては、到底考えられないことだった。
 ――あり得ない! 私が泳げなくなるなんてあり得ない!――
 とてもじゃないけど素直に受け止められるようなことではなかった。誤診に違いないと考えた水貴は、その後もいくつかの病院を周った。しかしどこでも結果は同じだった。もう認めるしかない。初めて味わう挫折。そしてそれは、進む道を失うということに直結している。
 それまで水貴を応援し、彼女のメダル獲得を信じて疑わなかった両親を初め、彼女を取り巻く周囲の人々は、信じられないような報告に彼女に掛ける言葉が見つからなかった。沈黙の世界にしばらく身を潜めた後、ようやく水貴は水泳界を引退すると表明し、そのまま入院・手術へとその身を任せた。そんな彼女に最後に与えられた称号は『世界ランク3位』・『悲しい水の天使』。

     * * *

 瞳から溢れているはずのものが、プールの水に溶け込んでいく。
 ――もしかしたら、塩分濃度が少しだけ濃くなったかな?――
 そんなことを思って、思わず笑みがこぼれた。
 ――馬鹿だな、私って。こんなことになってもやっぱり水の中が好きなんて……。いっそ嫌いになれたらどんなにいいだろう――
 水の底で瞑想する。それが今の水貴の一番の楽しみになっている。しかし、水の中で息を止めているのにも限界がある。そう、何にでも限界ってものがあるのだろう。いつかは浮上しなくてはいけない。このまま底に沈んで、何も考えずにいられたらどんなにいいだろう。この宇宙を漂うような心地よさ、誰にも侵害されない自由。上でキラキラ輝いている光だけを見つめていられたら……。
 
 水貴は胸苦しさに耐え切れなくなってやむなく浮上した。慌てて吸い込んだ空気に少しむせてしまう。
「さあ、行くか」
 水しぶきを上げて勢いよくプールを出ると、右足に義足をつけた。そして顔を上げ、ぎくしゃくと不慣れな歩みではあったが前を向いて歩き出した。その目にはまだ、進むべき道は見えてはいなかったが……。
作品名:「底」 作家名:ゆうか♪