雪割草
〈93〉親友
その頃、佐々木家の庭では助三郎が素振りをしていた。
休みをもらい、家でゆっくりのんびり過ごせるのはいいが、体が鈍るのでこれだけは欠かさずに毎日やっていた。
一段落つき、汗を拭いていると、下女が呼びにきた。
「旦那さま。お客様を居間にお通ししておきました。」
「御苦労。すぐに行く。」
またか?
祝言の祝いを言いに来たか?
面倒だな…。
ほぼ毎日そう言う関係の客のもてなしをしていたので、いい加減飽き飽きしていた。
しかし、失礼のないように身なりを整え、客間に向かった。
「お待たせいたした。…え?」
部屋の下座に座っていたのは、帰宅してから一度も会っていない友人、いや、中身は許嫁だった。
「これは佐々木殿、ごきげんよう。」
笑顔で平然と挨拶をした彼に助三郎は驚いた。
「なんで来た?義母上に外出禁止にされたんだろ?」
そう言うと、目の前の男はこう言った。
「それは姉貴だ。俺はある程度は自由が利く。」
この言葉に助三郎は嬉しくなった。
…これは橋野早苗じゃない。渥美格之進だ。
俺の友達だ。
「何しに来たんだ?」
「忘れたのか?約束。」
そう言うと、後ろから祝い用の酒を引っ張り出した。
「え?」
「紀州を立つ日、お前俺に言ったろ?『祝言来てくれるか?』って」
思い出した。
そういえば、言った。
そしたら『行けたらな。』と少し寂しそうに言われた。
「やっぱり祝言は出られないから、今日祝いを言いに来た。」
白無垢着て、隣に座るから無理に決まっている。
それなのに、俺との約束を忘れずに来てくれた。
「ありがとう…。」
「一杯やりたいが、昼間だから飲めんな、母上にバレたらヤバイし。」
「あぁ…。そうだな。」
しばらく沈黙が続いたが、目の前の格之進は姿勢を正した。
「義兄上、姉上を大切に…幸せにしてください。よろしくお願い致します。」
「承知いたした、格之進殿。一生、大切に致す。早苗殿によろしく。」
「心得た。では、これにて。」
早苗は、早々に佐々木家を出て、家に戻ることにした。
ふくに見つかり怒られたくはなかった。
しかし、家の手前に来て、何かがずっと後をつけていることがいい加減怖くなった。
気配が佐々木家からずっと付いてきていた。
「誰だ!」
思い切って振り向き、ドスを効かせて脅しをかけたつもりだったが、背後には誰もいなかった。
あれ?
気配がしたのに。なんでいないの?
あたりをきょろきょろ見回すと、気配の元が声を発した。
「クゥン…」
足の下に、犬のクロが悲しそうに早苗を見上げて座っていた。
「なんだ、クロか。どうした?」
可哀想な仔犬を撫でようとしゃがむと、大喜びして飛び付いてきた。
「ワンワン!」
「ごめんな。遊んでやれなくて。母上が帰ってくるまでちょっとだけ家に来い。
でも、後でちゃんと帰るんだぞ。助三郎が心配するからな。」
「ワン!」
仔犬を家に連れ帰り、一緒に遊んだ。
数日後、クロとも毎日一緒に過ごせると思うと、祝言が待ちきれなかった。
しばらくすると、庭の外から声がかかった。
それは、さっき別れたはずの助三郎だった。
「よう。格之進、クロがいないんだが。」
「それなら、俺についてきたぞ。可愛そうだが連れ帰ってくれないか?母上が絶対うるさい。」
「わかった。」
しかし、助三郎は何かを言いたそうな顔をしていた。
「用事はそれだけか?」
「いいや、言い忘れた事言いに来た。ちょっといいか?」
「ああ。」
早苗が思ったとおりだった。
眼の前に助三郎が来ると、じっと見られた。
男の時はそんなことめったにない。
背が同じくらいのせいで目線が一緒、普段見つめられる時は見下ろされるので、違和感が残った。
「なんだ?」
「…お前が好きだ。」
大真面目に目の前の助三郎は早苗に言った。
「は!?」
「…格之進が好きだ。お前と旅で仲良くなれて本当に嬉しかった。
とんでもないことして、お前を何度か傷つけたが…。」
「もう、気にするな。」
何を言うかと思ったが、案外真面目な話で早苗はほっとした。
「…こんなバカな男でも嫌がらず友達で居てくれた。ありがとな。」
「…あぁ。」
「…それでさ、頼みがある。」
「なんだ?」
助三郎は少しうつむき加減で、照れくさそうに言い始めた。
「…早苗と結婚して、お前と義兄弟になっても、出仕して同僚になっても、嫌じゃなかったら、友達で居てくれないか?」
「そんなことか、わかってる。ずっと友達だ!心配するな。」
「ありがとう!格さん!」
心底うれしそうな笑みを浮かべたかと思うと、いきなり、早苗は助三郎に抱き締められた。
「…おい。男のままだぞ。早苗に戻るか?」
「いやだ。格之進のままがいい。それに早苗は祝言までお預けだ。」
そう言われて気付けば、女の時にされる優しい抱き締め方ではなく、力任せで苦しかった。
「…お前は、俺の一番の親友だ。」
初めて『親友』という言葉を彼から聞き。
驚いたと同時にうれしさが込み上げてきた。
「俺でいいのか?」
「あぁ。お前がいい。」
やっと苦しい抱擁から解放されると、早苗は助三郎に帰宅を促した。
「じゃあ、そろそろ帰れ。うるさい母上が戻ってくる。」
彼はあっさりとそれを認め、仔犬と一緒に帰って行った。
「またな!よし、クロ、家まで競争だ!」
「ワンワン!」
彼らを見送り、早苗は自分の部屋に戻り鏡をのぞいた。
鏡にうつるのは、格之進だった。
最初、見た時は驚いたがしばらくすると慣れた。
一度戻れなくなったとき、怖くて見るのをやめた。
しかし、いまはしっかり見られる。
もう一人の自分。
「お前、一生居なくなれないな。」
鏡の中の弟に向って言ってみた。
やっぱり、消すことはできない。
たとえ解毒剤があっても、消したくはない。
夫となる人を悲しませたくはない。
一生、男に変身できる女。
そんな、変わった女を受け入れてくれる助三郎が自分に居てうれしかった。
祝言まであと少し。