雪割草
〈92〉帰宅
次の日の朝、光圀にようやく帰宅の許可をもらった。
「格之進は、早苗の祝言が終わるまで一切の出仕を免除する。それ以降はワシが要請したときに出仕してくれ。」
「はっ。心得ました。」
「あの、私は…。」
傍で助三郎が期待を込めてうかがった。
「お前さんは、結納終わったら普通に出仕じゃ。それまで来なくてよろしい。」
「ありがとうございます!」
休みがもらえてうれしい助三郎はいそいそと帰宅の支度をしはじめた。
「二人ともしっかり養生して、祝言の日取り決まったら、すぐに知らせるのじゃ。良いな?」
「はい。」
「では、帰ってよろしい。」
「はっ。失礼いたします。」
御老公自らのお見送りに恐縮しながら、その場を退き、連れだって家まで帰った。
早苗の家の者たちに、まず挨拶ということで、二人で屋敷に入った。
久しぶりの家で、まず下働きの娘が笑顔で出迎えてくれた。
彼女は早苗が男に変わったとき、驚いて顔を赤らめたが、変な眼で見てはこなかった。
「あ、早苗さま、お帰りなさいませ。」
「ただいま。はぁ、疲れた。元気だった?」
「はい。早苗さまもお元気そうで。佐々木さまも。」
「父上は、留守か?」
「いえ、いらっしゃいますのでお呼びしますね。」
少し待つと、父の又兵衛が必死の形相で突っ走ってきた。
「父上、ただいま戻りました。」
「義父上。お久しぶりです。」
二人が挨拶をしたが、又兵衛は一切聞いていなかった。
「早苗、早く戻れ!」
「何をあわてていらっしゃるんですか?」
「旦那さま、お水を!」
息が上がって声が出せなくなった父の後ろから、兄が出てきた。
相変わらずのんきな様子だった。
「よう、弟二人組!元気だったか?」
「はい。義兄上殿もお元気そうで。あの、義父上殿はどうされたので?」
早苗と下働きの娘が又兵衛を介抱している横で、助三郎は平太郎に聞いた。
「…そいつに縁談がいっぱい来てな。それで父上が焦ってるんだ。」
この言葉に早苗は驚いた。
「私に?でも私は助三郎と…」
「早苗にじゃない。『渥美格之進』にだ。」
「えっ?」
「ざっと今までで五十件くらいかな。問い合わせが主だがな。一部婿にくれだの、嫁を貰ってくれだのうるさいやつが多い。モテるな。さすが俺の弟だけある。」
「はぁ?」
あきれる早苗の傍で助三郎は一人ふざけ始めた。
「やっぱりな、思ったとおりだ! 早苗、見合いしてみたらどうだ?面白そうだ。」
「冗談じゃない!女の子としても意味がないだろ!」
「だから、早く、戻るんだぞ!」
息が上がったままの又兵衛は下働きの娘に支えられながら奥へ引っ込んでいった。
それに続いて早苗も家に上がり、助三郎に別れを告げた。
「助三郎、またな。」
「え。早苗は?」
「お前がふざけたからお預けだ。じゃあな。」
「そんな…。」
「義母上と千鶴ちゃんのとこに早く行け!いいな?」
「……。」
「そうだ、クロを頼む。母上がおこるからさ。じゃあ!」
クロが尻尾を振って見上げてきたが、助三郎はがっくりとうなだれた。
せっかく会えると思った許嫁に会えずじまいだった。
しかし、会えなかった家族の顔を見られると思うと少し明るい気分になり、早足で家に向かった。
「ただいま戻りました…。」
そう言ったとたん、下男下女がうれしそうに出迎えてくれた。
「旦那さま、お帰りなさいませ。」
「良くご無事で…。」
「ただいま。迷惑掛けたな。あ、この犬、飼うからよろしくな。」
後ろにくっついていた仔犬を皆の前に出した。
「お名前は?」
「ワン!」
うれしそうに吠えたクロだったが犬語は通じない。
代わりに助三郎が紹介した。
「クロだ。クロ、お願いしますは?」
「ワンワン!」
「ほう、賢い。良いお犬様だ。」
仔犬は佐々木家に受け入れられた。
皆の騒ぎにきづいたのか、母の美佳が出てきた。
「助三郎、良く戻ってきました。」
「お変わりは有りませんでしたか?」
「わたしたちに特には…それより、早苗さんがずっと前からいないと心配しているのを聞きましたか?」
早苗の友からも確か言っていた。姿が見えないって。
俺と一緒に旅してたんだから居るわけがない。
しかし、今行っても理解はされない。
「早苗は無事ですよ。」
ひとまずこれで切り抜けた。
「良かった…。安心しました。」
しかし助三郎は少し気がかりだった。
母上にいつはなそう…。
早苗は男に変わる事ができる。
びっくりするな…。
そこへ、妹がやってきた。
「兄上!お帰りなさいませ。」
「おう、千鶴、ただいま。元気だったか?」
「はい。それより、義姉上はいらっしゃるんですか?会いに行こうかな?」
相変わらず早苗をしたっている。
もしその姉が男に変われるなどと知ったらどうなるか。知りたいような怖いような感じがした。
「…まだ男のままかもしれんぞ。」
「どういうことです?」
「…なんでもない。」
千鶴は次に話題をクロに持っていった。
「そうです、兄上、あの庭で走っている犬は?」
「家で飼う、クロだ。おいで!」
黒の塊は呼ばれるとすぐすっ飛んで助三郎のもとにきた。
「ワン!」
「クロっていうの?かわいいわね。母上、縁側に上げてもいいですか?」
「後で掃除しなさいね。そうだ、おやつあげましょう。」
そう言うと美佳は台所に去っていった。
助三郎は縁側で出された茶をすすりながら、ほっとしていた。
妹も母も犬好きでよかった。
クロを可愛がってもらえる。
しかし、その安どもつかの間、千鶴からとんでもない言葉を聞いて茶を吹き出しそうになった。
「あの、兄上と一緒にご老公様のお供をしたお方。渥美様ですか?
頭が良い上にお強いと評判ですが、本当ですか?」
間違いなく、『格之進』のことだ。
早苗の友達も言っていた。『噂』と。
「あいつそんなに噂になっているのか?」
「はい、友達に聞いて、遠目で見ましたが確かに格好良かった。一度お会いしてみたい。」
遠い眼をする千鶴の様子に、助三郎は開いた口がふさがらなかった。
今までどんな男を見てもかっこいいなんて言ったことなかった男嫌いの妹までも惚れさせる。
そんな力があったのかと、改めて驚いた。
男が見てもかっこいいから、女には尚更なのもわかってはいたが。ここまでとは思わなかった。
自分の妻が、妹の夫になどなってしまっては最悪なので、夢から覚めさせることにした。
「心してきけよ。渥美格之進は……お前の義姉上だ。」
「何をおっしゃっているんですか?」
綺麗な額にしわを寄せ、いぶかしげな表情になっていた。
「あれは、早苗だ。」
「また冗談を…。」
鼻で笑われ、ムッとしたが、仕方がない。
「信じないよな…いい、後で呼んでくる。」
早速橋野家に向い、早苗を呼び出した。
でてきたのは、今度こそ大好きな許嫁だった。
今まで許されなかった分、思いっきり抱きしめた。
「早苗、会いたかった!」
「わたしも!」