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吾輩は猫である

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 石鹸の柔らかな香りが鼻をくすぐった。
 細く、しなやかな彼女の指が、顎から耳へと優しく撫で上げる。
「……っ」
 その絶妙な力の入れ加減に、俺は思わず変な声を出しそうになった。
「あっ、もしかして、ここ……ダメ?」
 仄かに紅潮した日野が、艶っぽい目で俺を見つめる。
 ダメじゃない。ダメじゃないんだが……。

 ――ヴァイオリニストの卵が、そんなに指を酷使したらマズいだろう……?
 
「ごめんね、もうちょっとだけ我慢して……」
 ぶるぶると身体を振りたいのを我慢して、俺は密室を満たす湯気を吸い込んだ。

「うーん、落ちないなぁ……」
 ――一応誤解のないように言っておくが、ここは、日野家の風呂場だ。
 で、俺は絶賛シャンプー中。
 突風で倒れたカンバスの下敷きになった俺は、耳から背中にかけて油絵の具がべっとりと付着してしまった。
 アッシュグレーの体毛が、鮮やかな緑に染まった姿は実にひどいもので、何処ぞの巨匠が描いた抽象画を思い起こさせる。
 すぐに筆洗油を染み込ませた布で拭ってくれたお陰で、ある程度は落ちたものの、きちんと落とすには石鹸を使うしかなかった。それですら、完全に落ちる保証はないだろう。

「どうしよう……このままじゃ、ヒロさんがまだらになっちゃうよ〜」
 そんなわけで、今日も俺を自宅に連れ帰った日野は絵の具を落とすべく、風呂場で泡まみれになって奮闘していた。
 ちなみに包帯の巻かれた右前肢は防水仕様――ビニール袋に入れて輪ゴムできつくなりすぎない程度に縛られている。
 猫の本能的に身体を洗われることは非常に不快なのだが、日野の真剣な顔を見ると逃げる気にもなれず、俺は為すがままにされていた。

「耳だけは……ごめんね。お水が入りそうだから怖くて洗えないんだ」
 いっそ、柄だと思えばいいんじゃないか?
 最悪、毛が伸びれば切ることもできる(その前にこの忌々しい魔法が解けると思うが……)
 ビリジアンがだいぶ薄れたところで諦めがついたのか、日野は俺の耳に水が入らないよう丁寧に手を添えて、温めのシャワーで石鹸を落とした。

「ヒロさん。よく頑張ったね、偉い、偉い」
 なんて言いながら、濡れた俺の頭を撫でる。
 そりゃ、まんまお前さんに向ける言葉だよ、と思いながらも俺はおとなしく頭を垂れていた。

 何はともあれ、苦行でしかないシャンプーからようやく解放されて、一安心だ。
「……みゃ?」
 ひょいと持ち上げられて、何故か湯船に浮かべた洗面器に入れられる。
 飼い猫を土鍋に入れるのがネットの世界で流行っているらしいが、洗面器ってのは、ちと聞いたことがないぞ?
 
 そして、日野は世にも恐ろしい言葉を口にする。

「えへへ……私もずぶ濡れになっちゃったから、一緒に入っちゃおっと……」

 ――――は?

 一瞬、頭の中が真っ白になった。
 入る……?
 何と一緒に、何処に入るって言うんだ?
 ――って、おいっ、まさか……。
 
 目の前でTシャツを脱ぎ始めた日野を見て、俺はようやく事態を察した。非常事態宣言発令!
 
「んみゃぁぁぁっ!」
(ストーォォップ!)

「ヒロさん……?」
 脱ぎかけたシャツを元に戻した日野が、俺の顔をじっと覗き込む。頼むから考え直してくれ。

「みゃっ! うみぁぁぁゃっ!」
(出せっ! 今すぐ俺をここから出せ〜)

「ダメだよ、そんなに暴れたら、湯船に落ちちゃうってば!」
 日野は水面で激しく揺れる洗面器の縁を押さえながら、困惑した顔で言った。
 ここから濡れた風呂場の床に飛び降りて、俺は無事に着地できるだろうか?
 まだ、前肢の傷は完全にふさがっていない。

「……そっか。いくらなんでもダメだよね」
 不自然なまでに抵抗する俺を見つめながら、日野は納得したように頷いた。
 良かった。分かってくれたか。
「ちゃんと服は脱衣所で脱いでくるね、ちょっとだけ待ってて」

 俺の想いは、悲しいまでに通じていなかった……。


        *  *  *

 ぴちゃん。
 天井から垂れた水滴が、俺の額を直撃する。

 ――何故、俺は、教え子と一緒に風呂に入っているのだろうか?
(厳密には湯船に浮かんだ洗面器に丸まっているので付き合っていると言うべきか……)

「ふふっ、ヒロさんと一緒にお風呂〜♪」
 何も知らない俺の飼い主様は、湯船に浸かって嬉しそうに鼻歌を歌っている。
 やはり無知とは罪だ。
 しかし、事の真実が明かされれば、犯罪者になるのは俺の方である。こんな理不尽が許されて良いのだろうか。いや、良いわけがない。俺だってれっきとした被害者なのだ。
 俺は露骨に顔を背けて、極力、日野の方を見ないようにしていた。
 耐えるんだ俺。
 この時間はそう長く続かないはずだ。

「あ〜っ、ヒロさん、もしかして照れてるの!?」
 素早く両手で抱き上げられて、強引に正面を向かされる。俺の下半身は湯船にしっかりと浸かっていた。
「そっか、そっか。男の子だもんね……可愛いっ!」

「うみゃっ……」
(おいっ……)

 白い首筋から肩にかけての滑らかな稜線が視界に飛び込み、俺は慌てて目を閉じる。
 ――見てない。俺は何も見てないからな。
 濁り湯タイプの入浴剤が入れられていることが、せめてもの救いだった。
 
「……でも、ケガしたとこを濡らしたら、やっぱりダメだよね」
 短い溜め息とともに残念そうな声で呟くと、日野は抱えた俺を洗面器にそっと戻す。
 ふーっ、危なかった……その、色々と。
 
「ケガがちゃんと治ったら、一緒に入ろうね」
 洗面器の中で再び丸まった俺の頭の撫でながら、無邪気に微笑んだ。

 ――怪我よ、どうかこのふざけた魔法が解けるまで完治しないでおくれ。


        *  *  *

「ヒロさん、ヒロさん……良い匂い〜♪」
 作詞作曲、日野香穂子。
 ――三十点。もう少し頑張りましょう。

 風呂から出た俺は、柔軟剤の利いたふかふかのタオルで水気を拭われ、傷口の消毒(もうあまり痛みはない)と包帯を新しい物に交換される。
 ようやくフリータイムの到来かと思いきや、何故かそのまま日野の腕の中に収まっていた。

「ちょっとまだらになっちゃったけど……うん、大丈夫。とっても可愛いっ! これは、メッシュだね」
 日野はやけに機嫌が良く、一時も俺を傍らから離そうとしなかった。
 この調子だとベッドの中にまで連れて行かれそうな勢いだ。
 ああっ、もうどうにでもなれ!


「……今日はね、先生がメールくれたんだ」
 掛け布団の上で丸まった俺を撫でながら、パジャマ姿の日野が微笑んだ。

「みゃぁ……」
(そりゃよかった)

 吉羅のヤツ、ちゃんと俺との約束を守ったらしい。
 替え玉がバレていないということは、それなりに上手くやってくれたのだろう。余計なことまで書いていないといいが。
「私に黙って出張に行っちゃったこと、わざわざ謝ってくれたんだよ。あのめんどくさがり屋の先生が……びっくりだよね」
 だが、それで日野の上機嫌の理由が分かった。
 ああ……そう言えば、今日は携帯電話を見て溜め息をつく彼女の姿を見た憶えがない。
作品名:吾輩は猫である 作家名:紫焔