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この手にぬくもりを

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序 事変



 その夜は星空が美しかった。
 何気なく見上げた夜空も、その時は普段と変わらず見え、さして感慨も覚えなかったというのに、後になってなぜかそう思うのだ。
 まるでその日から、何かが始まったかのように。
 それは、何も知らない人間にとって、突然の出来事だった。
 終わりの始まり。
 当時、そんな認識は誰も持たぬまま、世の中は何かに向かって昂揚しつつ進んでいた。
 今日も一人、新聞は軍神を作り上げる。


 満州事変が起こってから、板垣喜久子は新聞を隅々まで念入りに、繰り返し読むようになっていた。出征した夫の情報は、新聞だけが頼りだ。どんな些細なことでも見逃したくはなかった。
 もちろん、どんなに新聞を読んだところで、日本軍の謀略など見えてくるはずもない。喜久子も、他の多くの日本人同様、与えられる情報の表面的な意味しかとらえていなかった。

 三月に入ったばかりの、ある日のことだった。いつものように新聞を開くと、そこに見知った人の名前を見つけて、喜久子は息を呑んだ。上海事変での連隊長戦死を告げる記事だった。紙面に触れた指先が震え、動悸が激しくなる。
 喜久子は、何度も記事を読み返した。間違いない。夫と士官学校の同期生で、家族ぐるみの付き合いもあった、林大八大佐の死を、新聞は知らせていた。
 板垣一家が満州に渡る前から、林は長く吉林に赴任していて、喜久子とも面識があった。口数少なく、穏やかに笑っていた林の顔が、頭に浮かんだ。
 最後に会ったのは、ちょうど昨年の今頃だった。三月の人事異動で、内地へ帰還するの林の送別も兼ねて、彼の家族共々、板垣が家に招待した。お互いの子供たちが仲良く遊んでいるのを、板垣と林がそろって目を細めて眺めていた、そんな光景が鮮やかに思い出される。
 あの林が、死んだという。戦争に行って、弾丸に当たっただけで、確かに生きていた人が、いなくなってしまう。
 階級も大佐ともなれば、多くの将兵の上に立つ地位になる。最前線で戦う兵や下士官、尉官級の小隊長、中隊長などよりは、例え出征しても、ずっと危険は少ないのでは、と喜久子は漠然と考えていた。いや、そう考える事で気を休めたかっただけかもしれない。
 逆に、それなりの地位にいるから、こうやって不意に、容赦なく活字となって、目に飛び込んできてしまう。
 そういえば、喜久子の父が死んだ時も、佐官で、大隊長だった。そのことも重なって、不安と悲しみが、胸を突き上げた。
 忘れていた胸の傷が、再び疼き始める。

 この日からしばらく、喜久子は新聞を見るのが恐くなった。林大八の死が、喜久子が心の底に閉じこめていた不安を引き出し、あれほど毎日探していた「板垣征四郎」の活字を見つけてしまうことに、不安を覚えるようになった。
 ただ、そのことは誰にも言えなかった。話し相手といえば、家にいる女中か、慰問先の病院で顔をあわせている、将校婦人会の軍人の妻たちだが、自分の立場から話題にできることではない。
 頭では充分に分かっていた。この不安は、軍人の妻としての心構えや覚悟が自分に足りないから起きるのだ。
 こうしている間にも誰かが戦死し、多くの負傷兵がいると言うのに、知った人間が死んだ時だけ、打ちひしがれてはいられまい。
 夫への手紙には、遙か上海の地で亡くなった林大八を悔やむと共に、友を失って淋しく思っているであろう心を慰める言葉だけを書き、自分の不安は何一つ洩らさずに、送った。
 手紙を書くと、いつも封をしてしまってから、自分の気持ちを一切書いてないことに気付く。書くのは自然と子供達の事ばかりになる。
 板垣からもそれに準じた内容の返事が来る。それは、忙しい軍務の中時間を割いて書いたと察せられるものだった。夫からの便りは稀にしか届かないから、喜久子はその短い手紙を、幾度も読み返して、不安を紛らわせていた。

 それからまもなく、満州国が建国された。戦闘が終わったことが察せられたが、関東軍首脳は建国に際してもいろいろと多忙ならしく、板垣が家族の待つ旅順の官舎に帰ってきたのは、三月も終わる頃だった。
 久しぶりに家に帰ってきた父親のまわりに群がって離れない子供達を、やっと寝かしつけて一息つく。あらためて、喜久子は卓を隔てて正面に座っている板垣を見た。久々に見るから余計に気がつくのだろう、半年前より目に見えて頭に白い物が増えている。痛ましく思ったが、指摘するのはためらわれた。
 喜久子は、会話の糸口を探していた。子供達が寝静まった途端、めっきり静かになってしまい、所在ない。
 これも喜久子の悩みの一つだった。夫がいないときは、早く帰ってきて欲しいと思うのだが、いざ帰って来ると、どうにもやりにくいことがある。
 相手から話しかけられたり、話題を振ったりしてもらえればいくらでも話せるのだが、自分から切り出すのは苦手だった。無口で、話せば訥弁の板垣にそのようなことを期待できるわけもなく、また喜久子にとって、彼は特別、話の糸口が見つけにくい対象だった。
 話したいこと、聞きたいことはたくさんあったはずだ。出征軍人の妻が自決した事件への疑念や、林大佐が戦死したこと。いろいろあるのに、どう切り出して良いのかが分からない。いつもこうやって貴重な二人きりの時間を棒に振っている気がした。
「いつまでこちらにいられるんですか?」
 たまに帰ってきても一緒にいられる時間は少ない。喜久子は、大して期待はせずに尋ねた。
「明日の昼には発つ。これからもいろいろ忙しいんだ。司令部も移る事になったから、新京の方に長くいることになると思う」
「じゃあ、引っ越しですか?」
 今までは、といっても満州事変勃発前だが、関東軍司令部がここ、旅順にあったため、官舎も市内にあり、家族で暮らしていた。それが司令部が移るとなれば、旅順にいる意味はない。
「いや、向こうはまだあまり整備されてないし、子供たちの学校の問題もあるから、君達はこのままここにいたほうがいい」
 この返事に、喜久子はがっかりした。つまり、夫は単身赴任で、滅多に家に帰ってこない、今までと変わらない状況なわけだ。ただ、ひとつ違う事は、彼が何処で何をしてるのか、戦火にさらされているのではないか、ということが全く分からないことはなくなった、ということだろうか。喜久子は確認するように、言った。
「もう戦争は終わったんですよね?」
「ああ、終わったよ。……上海の方も、今月のはじめに現地で停戦協定が成ったそうだ、……林がやられた、次の日だったって話だよ」
「そうですか……」
 満州一帯よりも、最近では上海の激戦の方が大きく騒がれ、世間の関心も高かった。喜久子は黙って俯いた。やはり林のことは他人事に思えないほど堪えていて、言葉が見つからない。
 夫が出かけたきり、永久に帰ってこない。そんなことは考えたくないのに、現実に起こりうる事なのだ。何処の国と戦争をしているわけでもないはずなのに。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら