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百本足の憂鬱

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「――昔ね。私が嫌いな、子供だった頃。ムカデって、『百本の足』って書くと思い込んでたんだよね」

 俺が渡したマグカップを膝に置いて、先生は小さく笑う。自嘲気味に笑う。
「馬鹿だよね。百足――“本”がいらない」
 破片は全て拾い終わったし、今は新しいマグカップにココアが入っている。
 いつもなら自分で落としても――例え俺が、もっと高い花瓶を落としても――気にすることなど無いはずなのに、先生は何故か表情を曇らせて、何度も「ごめん、ごめんね」と口に出して謝った。あまりに弱々しくて、今にも泣き出しそうな声だったから、慌てて「謝らないで下さい」と言ったら、もっと泣きそうな顔になって、「前にもあったんだよね」と呟くように言った。
「ひょんな時に『百足』って書くって知った。その時初めて、違ったんだって分かったんだけど、恥ずかしいより何よりがっかりしたなあ。……馬鹿みたい。それくらいのことで、何でそんなに落ち込まないといけないのよ?」
「――」
 何か言わなくては、と思って、でも何も言えなかった。幸い先生は俺の返事を待っていたわけではなかったようで、すぐに言葉を続ける。
「その時の私も、すぐにそう思ったんだろうね。それで余計に、自己嫌悪に陥っちゃった。別に、それが初めての失敗ってわけでもなかったのに。……そりゃあ、ドジで間抜けな勘違いだったけど。そんなの、泣くほど落ち込むようなことじゃないよね」
 そこで先生は言葉を切って、遠くを見るような目つきになった。
「何でだろうね。落としちゃったマグカップの破片を見てたら、そのことを思い出しちゃってさ。ごめんねジロー。わけ分からないよね。私もさ、結局、何に傷ついたのか分からなかった自分の気持ちが……分からないんだよね」
 そして口を閉じる。沈黙というよりは、言うことが無くなってしまったような感じだった。
「先生…」
 かける言葉も見つけられずに、俺はただ先生の横に立っている。
 まるでウドの大木だ。ただ突っ立っているだけの木偶の坊。情けない。本当はこんな時にこそ役に立てる人間でありたいのに、俺はいつまで経っても先生の気持ちを理解できないでいる。
「ね、ジロー、ここ座って」
 やがて先生がぽつりと言って、ソファをぽんと叩いた。先生の隣に座ると、肩に頭を載せてくる。
「ごめんね、充電させて」
 どうやら電池が切れたらしかった。
 肩を貸しながら、正面にある観葉植物を眺める。――もしかしたら。
 ふと思った。先生は、ダンスが踊れなくなってしまったのかも知れない。
 百本の足で複雑なステップを見せていたムカデは、どの足から踏み出すのかという質問のせいで踊れなくなってしまった。今まで無意識に足を動かしていたのに、いきなり意識することになったから。考えれば考えるほど分からなくなって、こんがらがって、がんじがらめになって……そしてとうとう、簡単なステップを踏むことさえ出来なくなってしまった。
 そうだ。先生はきっと、自分で自分に手紙を書いてしまったのだ。どの足を最初に動かすのか、次は何番目の足か。考えなければならないと思い込んでしまったのだ。
「先生?」
 肩にかかっていた重圧が消えて、思考が途切れる。
 もういいんですか、と聞こうとして、しかし口は違うことを喋っていた。
「もう踊れますか?」
 先生はきょとんと目を丸くする。俺はそこで、先生にとっては全く意味不明な――とんちんかんな質問をしてしまったことに気づいた。
「あ……その…、」
 だけど、次の瞬間、先生は笑い出した。
「ジロー。私、ムカデなわけ? やだ、それってちょっとひどくない?」
 ――ああ、俺の単純過ぎる(そして安直な)思考の流れくらい、先生ならトレース出来て当然だった。
「すみません」
「別に、いいってば」
 先生は手をひらひらと振った。もう、いつもの先生だった。
「グスタフ・マイリンクだったっけ。私が聞いた話ではカエルだったけど、ジローは何だった?」
「……俺は、テントウムシでした」
「そうなんだ。アリの話もあったよね」
 まだクスクス笑いながら小さく頷いて、そして、再び俺の肩に頭を載せる。
「あの……先生?」
「まだ、だよ。上手に踊るには、もう少しかかるみたい」
「どれくらいですか?」
 何も無ければ先生が満足するまで動かないでいたかったけれど、今日は予定が入っているのだった。
「あと少しだけ」
 先生は小さい声で囁くように言った。俺は時刻を確認する。
 依頼主との待ち合わせ場所であるホテルまでのルートを変更すれば、少しは出発時間を遅らせることが出来るだろうか。
 頭の中に地図を描いて、近道を探し始める。……大丈夫。もう少し、あと少しだけなら。
「……先生」
 やがて、出発の時間になった。けれど先生はまだ動かない。そろそろ出発しないと、ギリギリの二歩くらい手前だった。
「先…」
 呼びかけて、止める。
 まだ一本目の足が温まっていないのかも知れない。九十九本目の足がつってしまったのかも知れないし、あるいは百本目の足が言うことを聞かないのかも知れない。二十三本目の足が筋肉痛で、三十七本目の足と十二本目の足が腫れているのかも知れない。
 あのムカデは二度と踊ることは出来なかったけれど、先生は違う。
「わかりました。……あと、少しだけ」
 法定速度を破ることも考えながら、俺は、先生の充電完了を待つことにした。
 たまにはこんなことがあってもいい。ただでさえ休みが足りていない人だから。

 ――だから、先生。憂鬱が去ったら、また、軽やかなステップを踏んで、踊って。




   - fin -
作品名:百本足の憂鬱 作家名:覇王