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小さな鍵と記憶の言葉

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第6章


6 幸福と困惑  “Puzzle and Peace”


「莉良?」

 名前を呼ばれて我に返った。
 辺りを見渡すと、空にはいつの間にか滲み出した橙色、非常階段のクリーム色も僅かにその色が移っていた。手元にはクラリネット。放課後の部活の、練習の最中。私の顔を覗きこむようにして香奈が首を傾げている。
「どうしたの? ぼーっとしちゃって」
 なんだか懐かしい声だ。そう考えて、ふいに思い直す。
 何が『懐かしい』なのだろう?こうして毎日顔を合わせている相手なのだから、忘れることだってしないはずなのに。
「なんでもない。ちょっと、考え事」
「そう? それならいいけど」
 曖昧に笑う私を心配そうに見つめる友人。その瞳がとても嬉しくて、くすぐったい。
「そろそろ合わせるって。音楽室行くよ」
 ガラス戸を押し開ける。顔を上げるとちょうど、正面の教室から出てきた七瀬さんと目が合った。彼女は何も言わない。ただいつもの猫のような目で私を睨む。ううん。睨んでいると思うのは私のせいだ。彼女はただ、じっと私に目を向けるだけ。

「――なにかしら」
 私の様子が変だったのか、七瀬さんは少し不快そうに眉根を寄せる。それに慌てて首を振った。
「ううん。なんでもないよ」
 彼女の端整な顔に、益々怪訝な色が広がる。どちらかというと、私に気を張っているようにも見える。そして、彼女が口にしたのは思わぬ言葉。

「無理はしないでね」
「え?」

 擦れ違いながら、思わず聞き返す。けれどそれ以上は何も言ってくれなかった。
 そんなに顔色が悪いだろうか。誰にも気付かれないように、私はこっそりと苦笑した。

 全体練習が終わって、音楽室を抜ける。いつもならもう少し自主練習をしていくところだけれど、今日だけはどうしても、そんな気持ちになれなかった。
 私がどうしてここにいるのかを考える。
 なんだか、長い夢を見ていた気がする。どこからが夢で、どこからが現実なのかは分からないけれど。

 昇降口を出るところで丁度鉦原くんと鉢合わせた。どうやら彼も部活は終わったようで、今まさに帰るところらしい。
 とっさに声をかけると、鉦原くんもまた小さく頷き返してくれた。
「お疲れさま」
「お疲れ。一緒に帰るか?」
 思わぬ提案に驚きながら、そうして言い表せない感謝を抱きながら、私は首を振る。
「本当? じゃあ、そうしようかな」
 本当は自分がどうしてこうも落ち着いているのかも、よく分からない。あんなことがあった後なのに。
 そこまで考えて、決定的な違和感があることに気がついた。

 ――『あんなこと』?

 自分の思考回路なのに不安を憶える。七瀬さんにも、鉦原くんにも迷惑をかけているのは分かるけれど、それが何故だかまでは分からないのだ。
 何かがおかしい。何が『違う』?何が『分からない』のだろう。
 並んで歩きながら、何気なくスカートのポケットに手を入れてみる。そこに何か大切なものを入れていた気がしたから。


 その時、誰かが私の名前を呼んだ。

 『リラ』。

 振り返っても誰もいない。
 その声の主を、私は知っていた気がしたのに。

 けれどやっぱり思い出せなくて、私はぼんやりと空を見上げた。