恋をするスプートニク
第3話 『恋をするスプートニク』
燃えて尽きて落ちるなら、せめてぐるぐると回っていた事実だけは記憶の片隅に残していて欲しいと思います。我が儘なんかじゃないって言ってくれた貴方へ、最初で最後の、私の我が儘。
「犬は白黒しか分からないんじゃなかったか?」
「うーん。確かに前はそう言われてたみたいだけど」
犬は全色盲だと言われてきたけど、最近の研究ではある程度の識別は出来るだろうことが分かってきたそうだ。ただし赤色に関しては、特に明るい時は全く識別出来ないらしい。紫や青や黄色は分かる……みたいだけれど。
だとしたら、クドリャフカはきっと青い丸いものを認識したのだと思う。
彼女はどんな気持ちで青い星を見ていたのだろう、なんて呟いた私に対して反論した在原君に、更に私が反論したお昼休み。
「好きなのか? 動物」
「犬とか猫はね。アマガエルは何とか平気。トカゲは……駄目かも」
そして私は村上冬樹の作品『スプートニク』の文庫を閉じた。特に好きというわけでもないけれど、冬樹が好きだという友人が「ちょっとファンタジーっぽいところがあるんだよ」と言うから、図書室で借りて読んでみたのだった。気になったのはスプートニクという衛星のことで、ちょうど在原君と最近読んでいる本の話になったから、スプートニクについて尋ねてみた。そうしたらスプートニク一号と二号のことを聞かせてくれて、二号の話で登場したのがシベリアンハスキーの雌犬のクドリャフカのことだった。
スプートニク二号に乗せられて、そのまま、帰って来なかった彼女。
「一号も二号も、最初から帰るあてのないロケットだったからな」
話題が豊富というか、どうして昔の宇宙関係のことにまで詳しいのかと思ったら、スプートニク一号の打ち上げが十月四日で、在原君の誕生日と同じ日だったから、たまに見るテレビ番組で特集をやっていたときに覚えてしまったのだとか。
「ところで、“スプートニク”ってどんな意味か分かる?」
「旅人。旅の連れ、道連れ。――転じて、衛星」
クドリャフカはまさに道連れだったんだ。旅なんて概念を持たない無機物の、道連れになった命。
「確か……五号で犬やネズミを積んで、それは無事に戻ってきたはずだ」
「五号まで待てれば良かったのに」
そうしたら、クドリャフカは死ななかったかも知れないのに。
戻らなかった彼女。生きて帰っては来なかった彼女。命がみんな等しく重いだなんて、嘘だ。
「委員長、怖い顔になってるぜ」
「うん」
「新薬のためにラットが犠牲になるのも知ってるだろ?」
「うん。それも実は、どうかなって思ってる。だけど苦しんでいる人がいて、日夜研究している人がいて……一歩を踏み出すのには何かで試さないといけなくて、更に人間でも試さないと駄目なんだってことは……それも、分かってる」
命の重さは違うのだから。犬や猫が好きな私は、だからきっと、ペットを飼っていたとしてそのペットがどんなに好きでも、家族とペットが同時に危機に陥っていたら家族を取って、そして死したペットに涙を流すのだろう。我が儘で勝手な人間らしく、涙を零して死を悼むのだろう。そう思う。
「それが人間の愚かなところだと唾を飛ばして動物の権利を訴える愛護者の方が、よっぽど動物を侮辱しているように俺なんかは思うけどな」
「どういうこと?」
「人間が愚かだっつーんだろ? だったらどうしてその愚かな人間ごときが、動物の権利や意思なんかを代弁出来るってんだ? 馬鹿にしてないか? そいつらはただ生きているだけで、生きていこうと動いているだけで、主義も思想も、少なくとも俺達に分かるように示したことなんかないだろうよ」
「ただ、生きてるだけ?」
「そうじゃないのか?」
生きる為に生きて、俺達みたいに余計なことでごちゃごちゃとはしていないだろう、なんて。皮肉に笑んでみせた在原君は、それでも自分が人間であることを決して悔やんではいなくて、むしろ誇りに思っていて。……ああ、だから、人間を無闇に貶めたりはしない彼だから、こういう人こそ、かえって動物のことを過剰に持ち上げたり貶めたりはしないんだろうなと納得した。
「我が儘、じゃなくて?」
「我が儘なんかじゃない。どいつもこいつも、覚悟したくないだけなんだろ。委員長のそれとは、俺は、違う気がする」
割り切れない、と言葉にして流してしまおうとするのは、こうと決めてそれに伴う痛みを受け止めるだけの勇気がないからだと在原君は言う。少し耳が痛いのは、共感している部分が私の中にあるからだ。でも、「私が我が儘じゃない」からといって、「私に覚悟がない」と責めているわけでもないのは、どうしてだろう。
「だって、委員長は、目を背けたりしねえだろ?」
「――…」
「それで? その本自体は面白かったのか?」
「……あ、えと、面白くないことはなかったかな。でも、わざわざ文庫一冊になるほどまでに引き延ばす必要があったとは思えないかも。タイトルとそれが意味するところは読めばすぐに分かっちゃうし。あそこまであからさまなら、三分の一くらいの長さでまとめた方がかえって効果的だったと思うなあ」
「他の作品は読んだことあるか?」
「『レキシントンの亡霊』なら。短編集の方が面白いかも知れない…って、読まず嫌いだけど。一個くらい長編を読まないと比べようがないよね」
「ハマるやつはとことんハマるらしいけどな。村上冬樹は」
「そうだね。大学教授でものめりこみすぎて睡眠障害を起こしたって笑い話、どこかで聞いた事あるよ」
「何だそりゃ」
「だから、『レキシントンの亡霊』ってお話の中で――」
共通の趣味の読書の話は、やはり弾むもので、チャイムが鳴るまでお互いに言葉が途切れることがない。中間考査は明後日に迫っていたけど、幸い私も在原君も直前になって焦るタイプの勉強の仕方をしているわけではなかったから、普通の日々を送っていた。クラスの視線も再び生暖かいものになっていたし(少しばかり恥ずかしかったけれど、大体慣れた)、在原君とばかりいるわけじゃなくて他の友達とお昼を一緒する日もちゃんとある。相変わらず在原君とのことは話せないでいるけれど(話さないことが暗黙の了解、みたいな)、まあ、今となっては何をどう話せばいいのか私にも分からないでいるから、これでいいのかも知れない。
「あ」
「昼休み、もう終わりか?」
チャイムの音に、慌てて立ち上がる。本鈴まであと五分。
「教室戻んなきゃ……あ、ねえ、もう一つ聞きたいの。クドリャフカも意味とかあるのかな?」
「あー…確か、“巻き毛”だったか」
「毛がカールしてたのかな」
「じゃねえ?」
「そっか。ありがと。じゃ、戻ろうか」
「いいのか? 委員長」
「何が?」
「一緒で」
「え、あ……うん」
その時、在原君が、とても嬉しそうな顔になったのが、私も何だか、嬉しかった。
放課後。中間考査の一週間前から部活はお休みになるのが決まりで、だけど中間考査の後にすぐ他校との練習試合が入っているとか何とかで、在原君は打ち合わせのために剣道部に行っているらしかった。
作品名:恋をするスプートニク 作家名:覇王



