恋をするスプートニク
第1話 『安全神話』
平和が一番。普通が一番。平凡は幸福。
目立たなければいいとか、何が何でも平均的でなければならないとか、そんなこだわりは持ってはいない。
要はバランスが大事なのだ。親や先生には適度に反抗し、友人とは適度に喧嘩し、異性とは適度に恥じらい合う。時にはちょっと大きな事件。時にはちょっと面倒くさい喧嘩。――それも思春期に味をつけるスパイスです。
計算は必要ない。逃げる必要もない。ただ出しゃばらないように意識するだけで、世界はこんなにも平和に回っていく。地球を回すのは大多数の“普通”の人間達だ。――そうは思いませんか?
「普通が嫌」って、そもそも、どこからどこまでが普通と思っているんだろう。なかなか幅が広くて、曖昧で、有耶無耶なのが普通の強みだ、舐めてはいけない。――本当に普通じゃないのは異常者です。そう、異常者。
個性を求めたって結局誰もが仲間を欲しがるのだから、毛嫌いするものじゃあない。
「いいんちょー、数学のノート写させて欲しいんだけど」
数学の授業が終わるなり、男子が私の机にやってきた。特に珍しいことではない。
「何か今、思い切り平仮名読みで呼ばれた気がするんだけど……そして私は委員長じゃないんだけど」
私は眼鏡を押し上げて、いつものように真顔で、いつものような台詞で応えた。すると「お願い!」と彼は私を拝んだ。
「いやあ、やっぱり工藤さんて委員長!って感じだよ。眼鏡だし。髪二つ分けだし。ほら、同じ名字のよしみで頼むよ!」
「工藤君。我がクラスにはちゃんと委員長がいるのだよ」
指摘すると、私と同じ名字の彼は視線を泳がせた。「いや、でもさ」
「あいつ、委員長って感じじゃないよ。どっちかってーと会長? しかも超ゴーイングマイウェイな」
「会長の方が地位も高いし、成績も良さそうじゃない?」
「でも在原は実際問題、会長じゃねーし。ていうか、絶対、写させてなんかくれないだろ」
「まあ、基本的にノートは自分で取るものだからね。「そんなのお前の責任だろ? 自分でやんな」とか何とか、言いそうだよね。私も同じこと言ってもいいんだけど」
「うわ、ドンピシャ!」
「つまり、既に頼みには行ったんだね…」
「おう」
「で、断られたわけだ」
工藤君はぶんぶんと頭を縦に振った。
「だからさー。お願い! マジ、お願い!」
「君には数学の出来る同性の友人はいないのかね」
「だから頼んでんじゃん!」
「……性別の“性”なんだけど」
「いるわけねーじゃん! なあ、頼むよー」
「仕方がないなあ。昼休み終わったら返してよ?」
「うん、うん、絶対返す! 助かったー」
「だから私は委員長じゃありませんよ、っと。はい」
貸さないつもりではなかったから、これはつまり予定調和の寸劇だ。こういうのはあっさり許すとお互いによくないから、決まり切った結末のために二人は共犯となってお定まりの一場面を即興で演じる。
「サンキューな!」
「はいはい」 お願いだから、田西君に貸したときのように表紙を折り曲げたりはしないでくれよ…、と内心祈りながら、次の授業の準備をした。――田西君には理科のノートを貸したことがあるけれど、一日貸したら次の日には表紙が見事に折れ曲がって返ってきたのだ。本人に悪気が無かったのは分かかったし、そう目くじらを立てることではないからガム一枚で許してあげたけれど(これもまあ、お約束というやつです)、出来るだけ、他人から借りたものは丁寧に扱って欲しいものだ。……男の子だからって、そこは甘えちゃ駄目ですよ。もし好きな子に借りる時なんかどうするの! 幻滅されるよ。
「おい委員長」
「だから…」
私は委員長じゃないってば。
呼ばれたらそう返すのが恒例のこのクラスで、だけどこんな声で私を呼ぶのは一人しかいなかった。……女の子はもちろん女の子の声だし、男子はふざけて舌足らずに呼ぶのがほとんどなのだ。わざとらしく甘えたような、少し抜けた感じの声。まるで漢字がわからないまま発音しているような。
だからすぐに気付いて、言葉を切って相手を見つめる。
「正しくは君が我がクラスの委員長。……自覚ある? 在原君」
「みんな、委員長って呼んでる」
「君はたった今そう呼んだんじゃない」
いつもは「工藤」だ。いや、実際にはいつもというほど話すわけではないけれど。
きっと、さっき工藤君にノートを貸したのを見ていたのでからかっているんだろう。
前の方からやってきた在原君は、私の左斜め前にある彼の席には座らず、私の机まで来て「ノートあるか?」と尋ねてきた。
「数学はたった今貸しちゃったけど」
「いや、古典」
「それ昨日の時間割じゃない。――いや、ありますけどね」
全科目ではないけれど、毎日時間割以外のノートも持ってきているので、鞄は結構重たい。
「そうだと思って聞いたんだよ。貸してくれ」
「……そう言えば、昨日は少し遅れて来たね。委員会か何かの打ち合わせ?」
「ああ、剣道部の打ち合わせが長引いた」
「でも在原君、遅れたって言っても十数分でしょう?」
「最初の方は消されてたからな。全部取らなかった」
「あー、分かるかもしれない。何行空けるかとか、配分に困るもんね」
私は頷きながら鞄を開けて、古典のノートを取り出した。ペンケースの中に常駐している金属製のブックマーカーを昨日の日付のところに挟んで、差し出す。
「はいどうぞ」
「サンキュ。明日でいいか?」
「うん」
頷くと、在原君は間を置いて言った。
「家で見るんじゃねえのか」
明日でいいか、と訊ねておいてそれを聞きますか。在原君。
――ああ、でももしかしたら、前にみっちゃんにノートを貸してと頼まれたときに「家で復習に使うからごめんね」と断ったのを聞いていたのかも知れない。
ここぞとばかりに私は胸を張った。少しだけ、わざとらしく。
「ミラーノートがありますから」
「何だそりゃ」
「丸々同じノートがあるの。全科目」
「……何でまた」
「前に友達に頼まれたとき貸せなかったから……復習用に全部写したの。おかげでほら、そういうの気にしないで貸せるようになったし」
そう。別に私は常に誰かにノートを貸しているわけではないのだけれど、決して少ないわけでもないから、いっそ二冊同じものを作ってしまおうと考えたのだ。――みっちゃんには感謝。
おかげで、ノートをもう一冊作るときに間違いや改善点が見つかって、理解が深まるようになった。
「主要科目だけでいいんじゃないか?」
「うーん、でも期末前とかになると、微妙な科目で点稼ぎをもくろむ方もいますからねえ」
「で、貸してやるのかよ」
「うん。困った時はお互い様だしね」
私だって、貸してばかりではないのだ(誇れることではないけれど)。
具合が悪くて保健室で寝ていた時はみっちゃんに二冊ばかりノートを借りたし、休んだ時はもっとたくさんの子に借りた。
まあそういうわけだから、情けは人の為ならず(これって結局どっちの意味もありだと思う)ということで。
少し申し訳なさそうな顔をして、在原君は言い訳のように口走った。
「斎藤に借りてもいいんだが……アイツのノートは余計なことばっか書いてやがるんだ…」
「同じ剣道部の?」
在原君はため息まじりに頷いた。
作品名:恋をするスプートニク 作家名:覇王



