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お待ちかねの悪意

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彼はいつ痴漢に遭ったのか


「いやあ、これはこっぴどくやられたね。ついに本気で殺しにかかってきたか」
 岸谷新羅が、臨也の左肩を掴みながら、緊張感の無い声で言った。
 新羅は、引っ越したばかりだという、臨也の新しい事務所に赴いていた。闇夜に佇む高級マンションの外観は印象的だったが、新羅にはそれよりも印象的なことがあった。臨也は、新羅を迎えるにあたって、右側のドアノブを右手で掴んでいた。外と室内を遮断するように現れた腕に、新羅はすぐに臨也が左手を使えないことを悟った。
「っ! …………シズちゃんはいつだって殺す気だよ」
 脱臼していた左肩の関節が戻って、臨也はようやく人心地付いた。上半身裸でソファに掛けていた臨也は、不機嫌そうな顔を隠しもしない。
「それなら君、とっくに死んでるんじゃない?」
 臨也の前に立っていた新羅は、臨也の腕にくっきりと残った手形を見て渋い顔をした。赤でも青でも、紫でもなく、その痕は黒く変色している。臨也が鼻を鳴らした。
「俺だってそれなりに努力してるさ」
「そう? まぁ、腕が千切れてないんだから、そうかもね」
 新羅が臨也の左手を取って、痣の表面を軽く撫でる。途端、臨也がソファから飛び上がった。
「痛い! 新羅、いたいいたい!」
「うーん? 折れては無いみたいだね。意外と頑丈だな」
 臨也が騒ぐのを意にも介さず、新羅が感心したように呟く。臨也が堪えかねて、乱暴に新羅の手を振り払った。
「……ワザとやっただろう」
 ようやく左腕を取り返して、臨也が新羅を睨んだ。
「気のせいじゃない?」
 新羅は特に気にした様子も無い。睨みつける臨也の瞳の上、前髪の間から覗く額の裂傷に、新羅は視線を向けた。
「あいつのこと怒ってるの?」
 微妙に噛み合わない視線を追って、臨也が顔を上げた。そこへ消毒液をひたした脱脂綿が近づいてきたので、臨也は素直に瞼を閉じた。新羅が片手で前髪を除ける。
「いや? まぁ、静雄が怒るのも無理ないと思うよ。せっかく上手くいってた仕事も……バーテンだっけ? クビになっちゃったらしいし」
「……怒ってるじゃん」
 強く押し当てられていた脱脂綿が去ると、すぐにガーゼが当てられた。
「怒ってないよ? 強いて言えば、馬鹿だなぁと思ってる」
「あっそ」
 新羅の指が前髪を流すが、長さの無い臨也の髪は、すぐに額に戻ってしまう。ちくちく肌を刺激して、むず痒い。
「もう放っときなよ。そのうち引き千切られるよ」
 ガーゼをサージカルテープで固定しながら、新羅は感情の見えない声で言った。文字通りの恐怖を体験したばかりの臨也は、皮肉に笑った。
「無理だよ。あいつ、俺見た途端に自販機投げてくるんだから」



 あらかた治療が済んで、マンションの中をぐるりと探検していた新羅は、どこから見つけてきたのかウイスキーの瓶を携えて帰ってきた。それに気付いた臨也が、思わず顔を引き攣らせる。
「それ、高かったのに……」
 臨也の呟きを黙殺した新羅は、すっかり飲む気で冷蔵庫を漁っている。新羅の表情は穏やかだったが、底知れない恐怖を感じて、臨也はそれ以上何も言わなかった。
 臨也は、一人ソファに座って、ぼんやりと窓の外を眺めた。既に服を着こみ、左腕は首から吊っている。その他は額にガーゼが貼られているぐらいだが、服の下は左腕の痣を始め、さらに悲惨な状態になっていた。とはいえ、殆どが背中側なので臨也からは見えない。新羅の深い溜め息を聞いた臨也は、鏡で確認するのはやめようと強く心に決めた。自分の背中に何がぶつかったのかさえ、臨也は知らなかった。ソファにもたれかかれないのが、地味に辛い。
 新羅は、ウイスキーやミネラルウォーター、その他つまみになりそうなものを諸々テーブルに並べた。臨也の隣に陣取ると、上機嫌でウイスキーを開封する。
「さーて、いただきます!」
 臨也が恨めしそうに見つめる横で、新羅はまったく遠慮せずにウイスキーを注いだ。
「ていうか、俺の分は?」
 テーブルにグラスは一つしかない。
「怪我人は駄目。あ、ミネラルウォーター飲む? グラス取ってくるよ」
 新羅はそう言ってソファを離れた。意図的にやっているのだと、臨也は確信した。
「……やっぱ怒ってるじゃん」
 取り残された臨也は、置きっぱなしだったグラスに口を付けた。ストレートのままのそれは、喉に焼けるような刺激を残した。
「レモネードにしよう」
 新羅は、グラスの他に、レモン果汁や砂糖を抱えて帰ってきた。臨也の返事を聞く前に、目分量でレモン果汁と砂糖をグラスに入れる。それが優しさなのかどうか、臨也には判断付かなかった。
「……もう何でもいいけどさ、人の家勝手に引っかき回し過ぎじゃない?」
 マドラーでグラスの底をかき回している新羅を見つめながら、臨也は深く溜め息を吐いた。完成したレモネードの原液にミネラルウォーターが注がれ、陽炎のように混ざり合う。
「はい、乾杯」
 臨也にレモネードの入ったグラスを渡すと、新羅は自分のグラスを掲げた。グラスがかち合い、ささやかな音を立てる。新羅の作ったレモネードは、臨也の舌には甘ったるかった。

 臨也がレモネードを飲み干すたびに、頼んでもいないのに新羅がレモネードを作って臨也に渡した。臨也のレモネードは、既に三杯目だ。やはり甘ったるいレモネードに口を付けながら、臨也は減っていくウイスキーを名残惜しげに見つめた。新羅はかなりハイペースだ。酔っ払いの介抱など滅相も無い臨也は、そろそろ制止の声をかけようかと思案しはじめた。
「そういえばこの前ね」
 新羅が、ゆったりとした口調で話し始めた。普段は良すぎるぐらいの滑舌が、少し怪しい。
「うん」
 遅かったかと内心後悔しながらも、臨也は律儀に相槌を打つ。
「女の子のカウンセリングをしたんだよ」
「……いつからお前は精神科医になったんだ?」
 臨也が呆れた口調で言い放った。新羅は医者としての腕は確かだが、精神科医は務まらないだろう。何せデリカシーが無い。自分のことは棚に上げながら、臨也は思った。
「僕は外科さ。一応ね。……でも、頼まれたんだよ。ちょっと偉くて怖い人のお嬢さんがね、どうも様子がおかしい。ふさぎがちで心配だって。ほら、鬱病とか最近テレビで流行ってるじゃない? それで何故か僕が呼ばれたわけだ。病院にかかるのは、まだまだ偏見があるからねぇ」
 新羅の前から、臨也はウイスキーの瓶を静かに遠ざけた。軽くなったウイスキーの瓶が物悲しい。新羅は特に気に留めず、親バカだよねぇ、とへらへらと笑った。
「でね、ちょっと話をしたらね、教えてくれたよ。その子高校生なんだけど、通学の電車で痴漢に遭ったんだって」
「ふぅん、ありがち」
 臨也はさほど興味を感じられず、気の無い返事をした。ウイスキーの瓶を、そっとテーブルの下に隠す。
「そこそこ混み合った車両の中で、不埒な手が彼女の腰元に伸びて……」
「そういうのいいから」
 指先で再現してみせる新羅の手を、臨也が叩き落とした。新羅は不満そうな顔をする。
「つまんないなぁ。……それで、とある駅に着いた時、背後で動く気配がした。怖くて動けなかった彼女は、そのときやっと勇気を振り絞って振り向いた。もう降りるようだから、どんな奴か見てやろうと思ってね。」
作品名:お待ちかねの悪意 作家名:窓子