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あぁ、麗しの君

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はじまり



…あぁ、麗しの君…

四谷夏那は溜め息をついた。
四谷は身長は170センチちょっと、柔らかな黒髪に優しげだが少し頼りない顔付きをした、ごく普通の学生である。

彼の視線の先には一人の娘がいる。
四谷は、この娘をこうして学校帰りに道路の向かいから見つめるのを日課にしている。
もちろん本来ならばもっと近くで、そう、彼女とお近づきになって親しく話してみたかった。
しかし四谷はその見掛け通りなかなか意気地の無い男だったのである。
その証拠に、なんと彼は3ヶ月以上前から、庭で水まきをする彼女をただひたすら陰ながら見守っていたのである。それは一歩間違えばストーカーになりかね無い執念深さだった。

その四谷にストーカーまがいの行動をさせている彼女はとても美しい娘だった。
ハーフの様に美しく整った顔立ちに赤く染まった柔らかな頬。
歳はおそらく高校二年の彼と同じか彼より少し年上ほどで、ふわりと長い髪はまるでどこぞの西洋人形の様である。
しかしその表情は時折とても幼げになり、まるで純粋無垢な少女のような笑顔をよく花にむけていた。
うっかりその笑顔を見てしまったものは、例え四谷夏那でなくとも数日は通いつめてしまうだろう可憐さがある。

四谷が彼女を見掛けるのはいつも彼女の家とおぼしき屋敷の前にある、小さな庭でだけだった。
庭はなるほど小さいものの丁寧に手が行き届いていて、常に美しい花々が咲き並んでいる。
彼はそれを見る度に心底幸せな心持ちになり溜め息をついていた。
…そして今日もいつものようについていたのである。

四谷は暑くなってきた学生服を鬱陶しく思いながら、ぼんやりと考えていた。
といってもいつも割にぼんやりとしているためはたから見れば何も考えていないように見える。

(…どうしてこうも俺は意気地無しなんだろう?彼女に一目惚れしてからもう何日経った?…なのにことはなに一つ進展してやいないじゃないか!)

四谷は今度は先程とは違う種の溜め息をついた。
自分への失望である。
そして次にはあまりあてにならない妄想等をしだした。
意気地の無い男は妄想をよくするものである。四谷の場合は小学生並のくだらない妄想であった。

(ここで彼女が暴漢なんかに襲われたらなぁ。俺がすぐに飛び出して、えいっと跳び蹴りを喰らわせてやるのに。)

実際は何の武道経験も無い四谷はほっほっと勇ましく闘う己の勇士を脳内で描きながらなおも彼女を見つめていた。
まさか本当に暴漢が現れるなど露にも思わずに。

…四谷がいい加減その場を離れようとした時である。突如ゆらりと黒い大きな影が彼女の前に立ちふさがった。
その背丈は悠に180は超えていて、いかにも筋肉隆々といった感じの体つきをしている。
やや時代遅れの黒い皮ジャンを着たその巨体は、またたくまに小柄な彼女の体を覆ってしまった。
男はべたべたとした嫌らしい声を発する。
背を向けているので顔は見えない。
四谷は一体何者かと隠れきれるわけでもないのに、電柱の影になんとか体を隠そうとしながら奴を覗き見た。
少し離れてはいるが会話はよく聞こえる。

「やぁこんにちはお嬢ちゃん。おじさんのこと知ってるかな?」

どこから聞いても嫌らしい親父の声だ。…彼女の返事は聞こえない。
しかしどうやら首を横に振ったことがその次の男の言葉から読みとれた。

「そうかぁ、残念だなぁ。…でもね、実はおじさんはよく君のこと知ってるんだよ。」

四谷はだんだんと不安になってきた。
まさか自分の妄想通りの展開になるのでは?…それは困る。
なぜなら彼にはそんなに腕力が無かったからだ。

「僕はねぇ、ずうっと君を見守ってたんだよ。ずうっとずうっと、もう2ヶ月以上も前から。」

四谷は一瞬(勝った!俺のが長い。)等と阿呆なことを考えた後、やはり自分の憶測が正しいことに気付き始めていた。
四谷がアマチュアのストーカーならば、おそらく男はプロのストーカーだろう。
もちろん四谷は自分がストーカーをしている気などさらさら無い。

四谷はしばし考えた。
どうする?
はたして、自分が威勢よく飛び出して行ったところで彼女を助けだすことが出来るのだろうか?
むしろ返り討ちに合うことは目に見えている。

四谷はううむと唸り声を上げた。
そうこうしているうちに男はどんどん彼女に近付いて行っているようだった。
このままでは彼女が拉致監禁されそうな嫌らしさが男の背中からは溢れ出ている。
四谷は焦りだすがいまいち決心はつかない。
そもそも3ヶ月以上も通りがけに見つめるだけで満足の溜め息を漏らすような男である。
そんな決心そう着くものではない。

四谷がやはりここはプロ、つまりは警察に頼もうと携帯を取り出した時だった。
男の陰から可愛らしい声が聞こえたのである。
もちろん男の裏声ではあるまい。

「ごめんなさい。お母さんが知らないおじさんにはついてっちゃだめだって。」

四谷はあまりの子供じみた発言に面食らった。
男も「はぁ?」と変な声をあげる。
可愛い声はなおも続く。

「あのね、おかしとかもらってもだめなんだよ。大人の人に助けてって言うの。」

四谷は彼女が男をおちょくっているのだと考えた。顔に似合わず勝気なお嬢さんなのだろう、と。
男もそう考えたらしい、突然彼女に詰め寄った。

「おじさんをからかっちゃいけないよ。…後でうんとお仕置きしなきゃね。」

四谷はその台詞を聞いた瞬間頭が真っ白になった。
そして気が付けば携帯を放り投げ二人の元へうわぁぁぁと叫びながら走りこんでいた。
四谷は頭がぐるぐるとこんがらがり自分が何をしているのかいまいち理解出来ていない様子である。
突如奇声を発しながらふらふらと走りこんできた学生に驚いた男はとっさに拳をふるった。
そして大きな拳はいい音をたてて四谷のみぞおちにすっぽりとはまった。
四谷はきゅうと声をあげバッターンと柔らかな芝生の上に倒れた。
幸いにも、ストーカー男は突然現れぶっ倒れたわけのわからない青年への対応がめんどくさくなったのか、走って逃げていった。
気の毒な四谷青年は残された娘に「起きてくださいお花が潰れます。」と言われながら気付け薬にホースで水をかけられたのであった。








四谷は痛む頭と腹でぼんやりと眠っていた。
何やら菓子の良い匂いがする。
おそらく焼き菓子、それならばマドレーヌだったらいいなぁと四谷は考えた。
ゆっくりと寝返りを打ち、彼はふとあることに気が付いた。

(…俺の家に焼き菓子なんか焼ける人間がいたか?)

もちろんいない。
母も姉も恐ろしく無器用だし、母子家庭で働く母に代わり家事を担うのは姉ではなく自分だった。
それも特別上手いわけではなく、ごく普通の主婦レベルでもちろん周りの高校生よりは上手かったがお菓子などは作ったことがなかった。
それなのに周りからはとても良い香りがする。
四谷は飛び起きた。

(ここは一体何処なんだ?)

目覚めたそこはこじんまりとした洋風の一室だった。
作品名:あぁ、麗しの君 作家名:川口暁